文字サイズ
自治体の皆さまへ

交野に残る家康の足跡

31/43

大阪府交野市

織田(おだ)信長(のぶなが)、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)と並ぶ三英傑の1人、徳川(とくがわ)家康(いえやす)。交野市は家康の人生に度々かかわっており、今も史跡が残っています。家康ゆかりの地とともに交野市とのつながりを紹介します。

■関ケ原の戦いと市橋(いちはし)長勝(ながかつ)の活躍
慶長5年(1600)に家康方の東軍、石田三成らの西軍が関ケ原の戦いで衝突しました。星田に領地をもつ市橋家の当主・長勝は、秀吉死後に徳川家に仕えていました。市橋の本拠であった美濃国(今の岐阜県)今尾城は、西軍の城に近接しており戦いの前線となっていました。長勝は、両軍の衝突に先立ち西軍方の城を2つ落とす戦果をあげました。この時に長勝が着用した甲冑(かっちゅう)には、鉄砲の弾丸とみられる痕跡が額にあり、合戦の恐ろしさを伝えています。一方で、ウサギの耳のようにもみえるデザインのかぶと飾りは、現在の感覚でみるとしゃれたものにも見えます。長勝は関ケ原の合戦の戦功により、今尾城で一万石を加増され、二万石を超える大名となっています。

■方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件
関ケ原の戦いの後も豊臣家と徳川家の二重権力体制は続いていましたが、秀頼による京都方広寺の建設をきっかけとして、両者の関係は修繕できないものになりました。
なお、この方広寺の建設は豊臣家重臣の片桐(かたぎり)且元(かつもと)が担っていました。その弟である片桐(かたぎり)貞隆(さだたか)の領地の一つであった郡津からも建設のために人手が出されています。徳川豊臣両家を揺るがした事件の裏側には交野の人々も意外な形で関わっていました。
両家の溝は埋まらず、両軍は「大坂の陣」で全面衝突することになります。この時、星田が家康の人生に重要な舞台として浮かび上がったのです。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU