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交野に残る家康の足跡

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大阪府交野市

織田(おだ)信長(のぶなが)、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)と並ぶ三英傑の1人、徳川(とくがわ)家康(いえやす)。交野市は家康の人生に度々かかわっており、今も史跡が残っています。家康ゆかりの地とともに交野市とのつながりを紹介します。

■徳川治世の代官・庄屋
徳川治世の交野では、豊臣時代から続く市橋家や畠山家といった大名や、幕府の官僚である旗本が領地を得ました。こうした領主は交野に在住することはなく、村々の運営は領主の部下である代官や、村の代表である庄屋が担いました。
現在の交野市には、私部の代官屋敷として有名な北田家住宅や、寺の庄屋の屋敷である山添家住宅が残ります。いずれも江戸時代中期の18世紀前半から現代まで維持されてきたもので、国指定の重要文化財になっています。北河内では他に国指定になっている代官庄屋屋敷はなく、その周辺に残る古き良き町並みとともに江戸時代の文化を伝えています。
また、江戸時代になると、戦国時代に大きな被害を受けた獅子窟寺や、光通寺、無量光寺をはじめとした寺院が市内各地に戻り、復興を遂げました。

■星田村の庄屋を続けた平井家
大坂夏の陣で活躍した市橋(いちはし)長勝(ながかつ)でしたが、死去した際、子がいなかったため改易(領地、家禄等が没収され平民となること)の危機がありました。しかし、養子を後継ぎとし、近江国の仁正寺藩での存続が幕府によって許されることになりました。これには、家康公を支え続けた長勝の功績によるところが大きかったものとみられます。星田の領地も市橋家が治め続けることになりました。
その領地の庄屋は夏の陣で家康をもてなし、伊賀越えでも家康一行を助けたと伝わる平井家が幕末まで務めました。平井家は家康が夏の陣で宿泊した「御殿跡」の管理も務め、帯刀を許されるなど庄屋としては特別な待遇を受けました。家康公との縁は星田に多くの影響を与え、江戸時代を通して語り継がれることになります。

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