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交野に残る家康の足跡

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大阪府交野市

織田(おだ)信長(のぶなが)、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)と並ぶ三英傑の1人、徳川(とくがわ)家康(いえやす)。交野市は家康の人生に度々かかわっており、今も史跡が残っています。家康ゆかりの地とともに交野市とのつながりを紹介します。

■市橋長昭による石碑建立
市橋(いちはし)長勝(ながかつ)から数えて8代目の仁正寺藩主となったのが市橋(いちはし)長昭(ながあき)です。幕府内でも有数の文化人で幕府官僚としても優れており、23歳の若さで西国支配の拠点であった大坂城を管理する重要な役職、大番頭(おおばんがしら)を務めました。
大番頭の職にあった寛政11年(1799)に、長昭は江戸時代をとおして市橋家の領地であった星田を巡検(領主が領地をめぐり、現地確認を行うこと)しました。この時、長昭は、荒れ果てた御殿跡の姿を目にします。幕府の神祖・家康と自らの祖先に関わる重要な史跡の荒廃を悲しんだ長昭は、後世に事績を伝える碑を建立することを思いつきます。

■石材調達に奔走した星田村の人々
星田巡検から数年後の享和3年(1803)、星田村の役人が仁正寺藩陣屋へ呼び出され石碑建立を命じられました。この際、長昭の意向により、後世に長く神祖の業績を伝えるため、風雨に耐える強い石を用意することが求められました。石材調達を担当した平井(ひらい)三郎右衛門(さぶろうえもん)は良質な御影石を調達しようと、西宮の山を捜索するも石を得られませんでした。その2日後、西宮にいる親族に案内してもらい五田浜(ごでんはま)でようやく石碑に適した御影石を発見。運搬作業が行われ、星田村中総出で御影石が引き取られました。
その後、碑石の台石となる花崗岩を星田山中の抜谷で切り出し、御殿跡に運びこみました。こうして、家康と星田の由緒を伝える石碑設置の準備が整えられました。

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