■『和泉市の歴史』第5巻刊行 衣通姫(そとおしひめ)と茅渟宮(ちぬのみや)
府中町とその周辺の歴史を描く『和泉市の歴史』第5巻、「府中地域の歴史と生活」の内容を引き続き紹介します。
古代の伝説的な人物として衣通姫(そとおしひめ)(衣通郎姫(そとおしのいらつめ))がいます。衣が透き通って見えるような美人で、「そとおしひめ」の名もそれによります。この美人を主人公とする伝説が二つあります。
一つは、允恭(いんぎょう)天皇が皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の怒りをおそれ、衣通姫(皇后の妹)を大和から離れた茅渟宮(ちぬのみや)におき、日根野での遊猟を口実に何度も衣通姫のもとを訪れたというもの。もう一つは、衣通姫が同母の兄の木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と深い関係になってしまい、それが露見して命を絶ったというもの。
衣通姫の伝説は『古事記』と『日本書紀』に出てきますが、両者はまったく異なります。『日本書紀』によると、衣通姫は応神(おうじん)天皇の子の若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのおう)の子で、允恭天皇の皇后の妹で名前は「弟姫(おとひめ)」です。茅渟宮に住んだ衣通姫はこちらです。允恭天皇は最初、衣通姫を自らの宮の近く住まわせましたが、茅渟宮に移しました。一方、『古事記』では衣通姫は允恭天皇の子で、兄の木梨軽皇子は允恭の皇太子とされた人物です。悲劇的な最期をむかえたのはこちらの衣通姫です。
同じ名を持つにもかかわらず、異なる人物でストーリーも異なることをうまく説明することは困難です。ただ、複数の伝承があり、『古事記』『日本書紀』がそれぞれ別の伝承を採用した結果だと思われます。同じ名の女性が二人いたのではないでしょう。『古事記』の序によると、様ざまな伝承を正しく整理し、後に伝えることが編さんの目的でした。多くの物語が色いろなところで伝承されていたことがわかります。また、どちらの伝承でも、歌がいくつか収録されており、これらが歌物語として伝えられてきたことがわかります。
さて、允恭天皇は日根野での遊猟を口実に茅渟宮の衣通姫のもとへ行きました。茅渟宮は泉佐野市日根野の近くにあったとするのがひとつの考え方です。もうひとつの考え方が、この宮が奈良時代の茅渟宮につながるのではないかというものです。後の茅渟宮の所在地も確かではありませんが、律令制下の大鳥、和泉郡の境界あたりと推測できます(大園(おおぞの)遺跡が候補のひとつ)。このように考えると、和泉の中心部には古くから大王の宮殿があり、大王家と深いつながりを持っていたことがわかります。そのような歴史のうえに府中地域に和泉国の国府がおかれました。詳細な所在地はわかりませんが、府中の地名は国府に由来します。
『和泉市の歴史』第5巻は本体価格2、857円。文化遺産活用課、いずみの国歴史館、信太の森ふるさと館、池上曽根弥生情報館で販売しています。
文:市史編さん調査執筆委員 鷺森浩幸
問合せ:市史編さん室
【電話】44-9221
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