■酒と祭りと鯉といか 伯太藩の倹約令と黒鳥村の習俗
新型コロナウイルス感染症が流行し、人びとは長く行動を制限されました。その間、様ざまな行事が中断されました。
実は過去にも、様ざまな要因で伝統行事の継承が中断されることがありました。
幕末の物価高騰のなか、幕府や大名などの領主は、生活に苦しむ人びとに浪費を抑えるよう求めました。
和泉市伯太町に陣屋(じんや)を構えた譜代(ふだい)大名の渡辺氏は、領内の村むらに対して、年限を定めて禁酒を命じました。吉凶事(きっきょうごと)で止むを得ない事情がある場合や、正月三が日の飲酒は許可しました。あわせて領内での小売酒屋や煮売屋(にうりや)の営業を停止させ、村外から商人が妄(みだ)りに入ることも禁止しました。それだけでなく、衣類や履物などの服装も質素にするように命じました。くわえて、備荒(びこう)貯蓄のために家ごとに毎日少しずつ銭を積み立てる計画を練るように指示しました。
この指示を受け、郷惣代(ごうそうだい)と呼ばれる村むらの代表者は、倹約令の中身についての提案と、微調整を願い出ました。
一つ目は、倹約の年限を5か年とすることです。二つ目は、村むらで行っていた講こうや神事も含む吉凶の際には、酒量をこれまでの半分に抑えることを提案しました。三つ目は、藩主導の備荒貯蓄だと、かえって村むらの負担となってしまうとして反対しました。
藩は、二つ目の飲酒半減案は却下し、三が日以外は禁酒となってしまいました。
こうした調整を経た上で、村むらは、それぞれの村に即した倹約取締書(とりしまりがき)を作りました。そのため、取締書には、その村で行われた多様な習俗が現れることになります。ここでは黒鳥村の事例について紹介しましょう。
黒鳥村のうち伯太藩領であった辻村では、まず、藩が示した通り、神事祭礼や冠婚葬祭などの場所での禁酒や服装を質素にすることを決めました。
また、1月、3月、5月、9月、11月に行われていた伊勢講をはじめ、様ざまな講の際には、銭2、3文程度の献酒だけに抑えることにし、講中の飲酒を禁止しました。
さらに、寺社へ参詣した際に土産物や留守見舞いなどを用意したり、「酒迎(さかむかえ)」をすることを禁止しました。
7月14日、15日(旧暦のお盆)や「九月祭礼」に地車(だんじり)を出す際には、毎年藩の許可を得た上で行うことにし、それ以外で妄りに出したり、太鼓などをたたくことも禁止しました。「七月踊り」(盆踊り)についても、地車を出すときと同じように制限することにしました。
さらに、生まれた子への名付け祝や初節句などで人を招く場合は、厚縁の間柄だけにし、他人への披露を止めることにしました。また、大きすぎる「五月幟(のぼり)」を立てたり、人形を贈答することも、倹約中は中止としました。
3月には、男子の成長を願う「紙鳶(しえん)(凧)」を上げていたようですが、半紙十枚以上の大きな「いか(凧)」は禁止することにしました。
取締書からは、幕末の黒鳥村での内容豊かな習俗を知ることができます。
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