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市史だより Vol.306

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大阪府和泉市

■『和泉市の歴史』第5巻刊行 和泉府中駅前(府中町一二六〇番地)にあった工場

二〇二五(令和7)年は、和泉府中駅前商店街ができてちょうど60年となります。商店街ができる以前、和泉府中駅前には、大きな工場があったことをご存知でしょうか。
和泉府中駅前の地(府中町一二六〇番地)に工場ができたのは、一九二三(大正2)年のことで、府中織物という綿織物工場でした。阪和電鉄(現JR阪和線)が開業する6年前にあたります。駅前に工場が設置されたのではなく、和泉府中駅が工場に接する形で建設されたのです。
その後、府中織物工場は、一九三六(昭和11)年に和泉織物府中工場、一九四一(昭和16)年には東洋紡績府中工場となりましたが、一九四二(昭和17)年には売却されました。
東洋紡のあとを入手したのは、日本精密工具製作所(のち日精産業)という産業用の切削工具を製造する会社でした。府中工場への移転は一九四三(昭和18)年3月頃と推定されます。こうして、綿織物工場から工具工場となったのです。
一九四八(昭和23)年に至り、日精産業は突如、和泉撚糸と改称しました。和泉撚糸は、戦時中にブリヂストンタイヤが中国に設けていた青島ゴム工業のコード部門関係者が、日本に引き揚げて設立した会社で、タイヤのゴム層中に織り込まれる特殊な織布(タイヤコード)を生産しました。駅前工場の第三の時代=タイヤコード工場の時代が始まったのです。
一九四〇年代後半から五〇年代前半は、タイヤコードの素材が綿からレーヨンへと移り変わる過渡期でした。
レーヨンコードの生産を和泉撚糸に依存していたブリヂストンタイヤは、一九五二(昭和27)年に和泉撚糸を合併し、府中駅前の工場はブリヂストンタイヤ大阪工場となりました。そこで生産されたレーヨンコードは、ブリヂストンタイヤが業界トップへと躍進する原動力となりました。
さらなる生産増強をはかろうとした同社は、久留米の本社工場内にタイヤコード工場を新設し、府中駅前の工場を、一九五六(昭和31)年3月に閉鎖しました。
ブリヂストンタイヤ工場を引き継いだのが丸井繊維工業でした。丸井繊維は、和泉撚糸社長らが設立したタイヤコードメーカーで、東洋レーヨン(東レ)の系列的企業でした。
しかし一九六〇年代に入って、タイヤコードの素材としてナイロンが台頭してきました。ナイロンコードへの転換を迫られた丸井繊維は、東レの出資で新会社を設立し、愛知県西尾市に新工場を建設することになりました。こうして府中駅前の工場は廃止されました。
一九六二(昭和37)年末、丸井繊維の工場敷地を和泉市に売却する契約が調印され、府中織物株式会社の設立以来、40年にわたる府中町一二六〇番地工場の歴史は幕を閉じることになったのです。

問合せ:市史編さん室
【電話】44・9221

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