■広い地域の人びとに支えられた寺 妙泉寺(みょうせんじ)の知られざる文化遺産
歴史ゆたかな和泉市には、まだまだ知られていない文化遺産が数多く眠っています。
市史の調査では、思いがけないところから、予想外の発見をすることもしばしばあります。その一例を紹介します。
和気町にある妙泉寺は、大覚僧正(だいかくそうじょう)が暦応(りゃくおう)年間(1338~42)に建立した寺に由来します。大覚僧正は、もともと真言宗大覚寺(京都市)の住持でしたが、日蓮の弟子日像(にちぞう)の教えをうけ、弟子入りしました。その後、畿内(きない)・中国地方に日蓮宗の教えを広めるなか、和気村に逗留(とうりゅう)し、寺を建立しました。そのこともあって、今でも和気町では、座(六人衆)が、日像筆の法華経曼荼羅(ほけきょうまんだら)の掛軸[暦応3(1340)年]を用いた行事を営んでいます。また、和気村の庄屋を務めた田所家では、大覚僧正の没後400年供養碑が宝暦12(1762)年に建てられました。
妙泉寺は、和気地域の人びとだけでなく、より広い地域の人びとの帰依(きえ)をうけました。紀州街道の助松から妙泉寺へ向う和気道や、大阪の三大妙見(さんだいみょうけん)として知られる上神谷妙見山(にわだにみょうけんさん)(感応寺(かんのうじ))とを結ぶ往還道(おうかんみち)も、参詣道として知られていました。現在は場所が移されましたが、小栗街道に架かる柳田橋のたもとに置かれた墓碑には、妙泉寺へ向う道が刻まれています。また、天保9(1838)年に、幕府に禁教とされた日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)の人びとが、大坂から和歌山へ逃れる道すがら、和気村で匿(かくま)われることもありました。
この事例からも知れるように妙泉寺は、大坂や堺などの都市部の人びとの信仰を集めていました。本堂の外陣(げじん)に架(か)かる日蓮の法華経曼荼羅を刻んだ板曼荼羅(いたまんだら)は、慶安4(1651)年に、大坂町人らが寄附したものです。寺の過去帳を開くと、大坂の大商人で茶人の鴻池善右衛門宗益(こうのいけぜんえもんむねます)(宗知)、歌舞伎役者の片岡我舛(がしょう)(三代目片岡市蔵(いちぞう))や嵐加納(かのう)、嵐橘三郎(きつさぶろう)らの名前も見出せます。
本堂の正面に架かる扁額(へんがく)も、幅広い信仰を物語る逸品です。明暦2(1656)年の年号が見えます。緑青色の達筆な文字を記した筆の主は、「朝鮮国雪峯(せきほう)」です。「雪峯」は、金義信(きむいしん)という能筆家(のうひつか)で、朝鮮通信使の一員でした。
朝鮮通信使は、江戸幕府と李氏(りし)朝鮮を結ぶ外交使節です。朝鮮から海路で瀬戸内に至り、各所を停泊しながら大坂で上陸したのち、東海道を通って江戸に向います。その途上で、様ざまな文化交流が行われました。金義信が揮毫(きごう)した扁額は、神戸、京都、彦根、小田原、東京など、十数例が確認されています。
このルートから外れる妙泉寺に扁額があるのは何故でしょうか。それを解く鍵は、扁額を寄贈した中与左衛門尉藤原俊秀(なかよざえもんのじょうふじわらとしひで)にあるはずです。使節の宿所まで足を運んで金義信を訪ね、揮毫してもらったのでしょう。残念ながらこの人物が誰かはわかっていません。
境内外に伝わる様ざまな文化遺産から、大坂や堺など都市部や広域の信仰によって支えられる妙泉寺の一端が垣間見えてきます。
問合せ:市史編さん室
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