[城東区×SDGs]
11 住み続けられるまちづくりを
多くの川が流れる城東区。今回は、かつて城東区を流れていた「川の跡」をご紹介します。
●カネボウ運河跡
大正4(1915)年に鴫野町(現在の鴫野西)に鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)株式会社大阪支店の工場が建てられ、工場に沿うように運河(通称「カネボウ運河」)が流れていました。昭和9(1934)年の地図を見ると、運河にはいくつかの橋が架けられていたことがわかります。現在は埋め立てられて、その一部が公園となっていますが、西鴫野3児童遊園(さくら公園)の南北の入口には橋の親柱が残っており、ここに運河があったことを伝えてくれます。
●鯰江川跡
鯰江川は寝屋川にほぼ平行して流れ、現在の城東区・鶴見区など大阪市東北部の悪水排除を機能とする河川でした。長さ約1.5キロメートル・川幅約30メートルのこの川には鯰が多かったことから鯰江川と称したともいわれています。大正6(1917)年には川底から大きな丸木舟が発掘され、古代人の水上交通として用いられたことが伺えます。現在は埋めてられて道路になりましたが、京橋駅の鉄道を支える橋梁には鯰江川の名前がつけられています。
●猫間川跡
阿倍野区から始まり、生野区の猫間川筋から東成区・城東区とJR環状線に沿って流れ、森之宮の砲兵工廠の西北端で平野川に合流していた、長さ4.5キロメートル、川幅約10メートルの川です。大坂の陣では、真田幸村とともに猫間川がよく登場し、兵糧を搬入したことが記されています。昭和47(1972)年頃に埋め立てられてJR西日本森之宮電車区の一部になっていますが、現在も近くにある抽水所の名前として残っています。
かつて水路として活躍していた川は、道路や公園等に形を変えて、私たちの生活を支えてくれています。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>