■第8回 にっとう地域
2025 令和7年、浪速区は区制100周年を迎えます。その節目に先立ち、浪速区の歴史を区内11地域の皆さんと座談会で振り返る連載企画です。第8回では、にっとう地域の皆さんに当時の思い出やエピソードなどを伺いました。
参加者 後列左から 井上惠津子さん、黒田ふみ子さん、水口博司さん、堀内勲さん、近藤尚義さん 前列左から 吉田和史さん、井上猛さん、幡多区長、田中一彦さん
合邦辻閻魔堂
■かつてのにっとう地域
区長 にっとう地域は日本橋筋を中心に発展してきました。
井上 惠さん 日本橋筋のあたりは昔、長町といわれていました。太閤秀吉が堺に行くためにおつくりになられたんです。その道がのちに紀州からの参勤交代の道に使われたんですね。その時、この長町のあたりに人足が求められ、交代で人足として雇われていました。宿屋が多い、旅籠 はたごのまちでした。
その後に古書のまちになり、それから戦後、紳士服と家具のまちになりました。そのあと、電気屋のまちになり、現在の趣味のまちに変わっていきました。
日本橋の電気屋さんの始まりは上新電機です。名古屋相互銀行の隣に青果業を創業したのが始まりと聞いています。戦後、ここに真空管などを買いにきて、ラジオを家で組み立てるんです。そのための材料を買いに来るところから電気屋さんが始まっていきました。
堀内さん 昔は髙島屋の東横から松坂屋 今の髙島屋東別館、そして名呉橋の手前 今の阪神高速えびす町入口あたりまでぎっしりと電気関係の商品を扱う店が占めていたそうです。
区長 名呉橋の話が出ましたが、にっとう地域には昔、高津新川という川が流れていたそうですね。
吉田さん 川は今の高速道路の下を流れていました。私たちはその川を東横堀川と呼んでいました。
近藤さん 高津入堀川とも言われていましたね。
井上 惠さん その川は西側で鼬 いたち川とつながっていて、西横堀川に続いていきました。
堀内さん 高津入堀川に架かっていた橋の1つが堀川橋で、あいぜんばしとも言われていて、その橋の近くが、石井記念愛染園の発祥の地です。石井十次というかたがそこに保育園と夜間学校をつくりました。
石井さんのよき理解者であった、倉敷紡績の社長の大原孫三郎というかたが、それらを引き継いで愛染園を設立し、1937 昭和12年には病院も開設されました。
◆深堀り。児童福祉の父 石井十次
明治期の急激な近代化は、国家興隆だけでなく多くの社会的困窮者を生み、その救済にあたった篤志家の1人が石井十次です。石井は、児童を孤児院で養育するより、家庭で養育することが優れていると考え、1909 明治42年、あいぜんばし西詰の製材所跡地に大阪で初めての保育しょ、あいぜんばし保育しょ、あいぜんばし夜学校を設けるとともに、日本橋5丁目に日本橋同情館を開設し、無料職業紹介、宿泊施設、往診、試薬、困窮者の保護などを行い、児童を取り巻く家庭や地域社会の環境整備を行いました。
写真 石井記念友愛社ホームページより
吉田さん 木津川の方から丸太を組んだイカダが流れていました。1948、1949 昭和23、4年頃まで、そういう風景が見られました。
井上 惠さん 1965 昭和40年頃までは材木屋さんもたくさん残っていました。
田中さん 今の阪神高速えびす町入口周辺に、たくさんありましたね。
■軍艦アパート
田中さん 明治の内国勧業博覧会を機に、最先端の公営アパートが建てられて、きれいなまちになったと聞いています。
堀内さん 1937 昭和12年に秩父宮殿下が軍艦アパートを視察しに来ています。完成した後に見に来ているので、1935 昭和10年頃にできたんじゃないかと思います。その碑が今もあります。
当時は鉄筋3階建てで、各家に水洗便所がついた画期的な住宅でしたので、とても有名だったらしいです。
1945 昭和20年3月の大空襲の時にもある程度、焼け残ったようですね。
近藤さん 軍艦アパートには戦後、香港の九龍城のセットに似ているからといって、映画を撮りに来た人がいました。その頃は、ちょっとスラムをイメージするような、香港映画のような雰囲気がありましたからね。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>