◆深掘り。軍艦アパート
明治中期以降の産業・経済の急速な発展による大都市への人口集中は、住環境の悪化などを招き、大正期には社会問題としてますます深刻化しました。そのため、不良住宅地区改良法が1927 昭和2年に施行され、これにより1929年 昭和4年から1933年 昭和8年にかけて鉄筋コンクリート造の今宮住宅、下寺住宅、北にっとう住宅、南にっとう住宅ができました。これらはいずれも、ガス・水道・水洗便所・ダストシュートなど充実した設備を備えた時代の先端をいくものでした。密集住宅地区に突如現れた巨大な白い鉄筋コンクリート造の集合住宅は、人々の注目を集め、屋上の煙突がかまどからの煙を吹き出す姿から軍艦アパートと呼ばれていました。
にっとう市営住宅記念碑 昭和12年2月に秩父宮両殿下が視察に来られた記念に建てられた碑
注 参照 浪速区懐かしの風景画より
区長 このまちの戦時中は、どんな様子だったのでしょう。
井上 猛さん 戦時中、堺筋の西側、今の日本橋4丁目、5丁目あたりですが、そこを飛行場にするというので立ち退きをさせられて、広い空き地になりました。1945 昭和20年3月の大空襲の時はそこに神棚とニワトリだけ持って逃げ、疎開先にもそのニワトリを連れて行きました。そうしたら卵をたくさん生んでくれて、とても助かったと聞きました。一緒に持ち出した神棚は今でも家に祀っています。
■下寺 町名の由来
区長 にっとう地域の東側は下寺という地名です。
黒田さん 私は1976 昭和51年に結婚して、下寺1丁目にあるマンションに引っ越してきました。そのマンションが建つ前はお寺だったそうです。
堀内さん 今も松屋町筋の東側はお寺が多くありますが、昔は両側にたくさんのお寺があったそうです。民家よりも寺の方が多かったと聞いています。
区長 松屋町筋が天王寺区との区堺 さかいになっていて、浪速区側は下寺、天王寺側が下寺町なんですね。
井上 惠さん 下寺の地名は、浪速区側はしもでら、天王寺区側はしたでらと言うんですよ。
区長 そもそもなぜ下寺と言うんでしょうか。
田中さん 昔、このあたりは海岸だったんです。上町台地から下りる地形になっていました。下寺にはお寺がたくさんありましたが、四天王寺から下ってきたところにあったので、そう呼ばれたのではないでしょうか。
■年末に活躍したちんつき屋
区長 水口さんは、今はない、昔の思い出はありますか。
水口さん 年末になるとちんつきという看板が出まして、子ども心に何のことかな。と思っていました。
井上 猛さん 賃 ちんというのはお金のことです。正月には家で餅をつきましたが、臼 うすがない家はちんつき屋についてもらうんです。
吉田さん その家の近くの道路上でちんつきをやってもらうんです。ちんつきをしてもらう家は毎年決まっているので、その時期になると4、5人でそういう家を順番にまわっていました。
■廣田神社と合邦辻閻魔堂 がっぽうかつじえんまどう
区長 にっとう地域の名所・旧跡のことも教えてください。
田中さん 廣田神社は今の堺筋、昔の紀州街道の中核でした。
◆深掘り。廣田神社 日本橋西2丁目4番
もと天王寺の鎮守で今宮村の産土神 うぶすなのかみですが創建年代は不詳です。古い由緒を持つとともに江戸時代には廣田の杜といわれ、うっそうとした森のなかに社がありました。当時は境内も広く、紅白2種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていたといわれています。桜の木も多く美しい社であったとのことです。無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利益があり、アカエイ 関西ではアカエを神使とするユニークな神社で、叡知のエイに通じることから合格・必勝の祈願をかなえるといわれ、広く信仰されています。
広田社雪景 写真浪花百景上編中編 大阪市立図書館デジタルアーカイブより
由緒あるお宮さんで、社域は今の浪速小学校のあたりから住吉大社までと広かったんです。萩の名所として有名で、紅白の萩が植えられていたそうです。
堀内さん 合邦辻の閻魔堂もあります。聖徳太子の開基と伝えられています。浄瑠璃や芝居の主役を務める人はそこに挨拶に行ったそうです。
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