■浪速区制100周年記念事業
浪速区の生い立ちを振り返ります ボリューム1
遠いむかし、上町台地のすぐ西まで海がきており、なにわえ、なにわがたとよばれていましたが、大和川と淀川が運んできた土砂が浅瀬、洲をつくり、後に浪速八十島 多くの島 の意を形成しました。このように当区の
大半は、かつては海あるいはアシの茂る地でした。
推古元年 593 10月、してんのうじが創建されるとき、諸国から海を渡って運ばれた木材は、当時海岸であったこの附近に集められ、地名木津のおこりになったといわれています。その木材を造営地に運ぶために掘られた堀が、いたち川となりました。
明治11年 1878 いたち川と難波新川の貫通工事中に古代のくり船 丸木船が発掘されました。わが国では、名古屋についで2番目の出土です。くり船は、前後2本のくすのきで造られ、継ぎ目の部分は釘を使わず、巧みなしくみになっていました。現物は大阪城に保存されていましたが、空襲により焼失しました。
昭和4年、南海難波駅の工事の際、地下7メートルあたりから無数の貝とともに土器や炭化した流木や獣骨が発見されています。このときのボーリング調査によると、この遺物を含む層は天然の海底沈積によるものでした。石器時代、この付近は海中で、当時海底に棲息していた貝類が地層の形成とともに自然に沈積したのち、陸上
に住んでいた人類が使った土器が流れつき海底に沈んだものと考えられています。
約6000から7000年前の大阪 水都大阪コンソーシアムホームページから抜粋
問合せ:区役所 総務課 企画調整
【電話】6647-9683 【FAX】6633-8270
■なにわマニア話 ボリューム3 立葉地域
◇船場の豪商たちの夢の跡・摂津紡績 立葉
明治15年 1882、藤田伝三郎、松本重太郎、渋沢栄一らが大阪紡績会社 現・東洋紡を設立し、大正区三軒家で日本初の近代紡績工場を操業しました。明治19年 1886の夜間操業開始には物珍しさで3日間、約5万人が訪れたといいます。
明治22年 1889、その大阪紡績の東側、木津川を挟んだ対岸の西成郡難波村 現・浪速区久保吉2丁目に設立されたのが摂津紡績です。初代社長は船場・道修町で唐紅花商羽州屋を営んでいた高田久右衛門 1812から1892 です。この羽州屋で働いて暖簾分けをされたのが伊藤萬助 イトマン創業者で、伊藤萬助は摂津紡績取締役も務めました。摂津紡績は順調に利益を上げて大和紡績、平野紡績、郡山紡績などを合併していきますが、大正7年 1918、尼崎紡績 初代社長は加島屋の広岡信五郎。広岡浅子の夫 と合併して大日本紡績 現・ユニチカとなりました。工場も移転することとなり、その跡地は芦原公園 昭和18・1943年開園 となっています。
摂津紡績・木津川工場 出典 ニチボー75年史
案内人 むつさとし さん
観光家 コモンズ・デザイナー 社会実験者
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