■日本初の骨粉肥料の発見から仲覚兵衛と岸部屋六兵衛
安永年間 1772から1781に薩摩・知覧の海運業者の仲覚兵衛が大坂滞在中に渡辺村を通ると道路脇で妙に雑草が繁っている所がありました。不思議に思って近づくと獣骨があり、覚兵衛はもしかしたら獣骨は肥料になるのでは。と閃きます。早速、獣骨を砕いて菜種に播くと見事な 実 ができあがり、覚兵衛は日本初の骨粉肥料の発見者となりました。その後、渡辺村の岸部屋六兵衛と獣骨売買の契約を交わしました。六兵衛は皮革商人で獣骨の処分に困っていましたが、それがお金になるということで覚兵衛と酒盛りをして喜んだといいます。この骨粉肥料はのちに薩摩藩の専売となって莫大な利益を上げ、大正時代には知覧に仲覚兵衛の顕彰碑が建立され、ひわたしきよかど 鹿児島の教育者 は 世の富をまねく尾花となりにけりしげる難波の里のこすすぎ の祝歌が伝わっています。また岸部屋六兵衛屋敷跡 浪速西2丁目14 にも記念碑が建立されています。
岸部屋六兵衛屋敷跡の記念碑 浪速西2丁目14
案内人:むつさとしさん
観光家 コモンズ・デザイナー 社会実験者
この記事は、地域の語り部のかたがたの発言をもとに作成しております。歴史考証はしておりませんので、予めご了承ください。
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