■第10回 日本橋地域
2025 令和7年、浪速区は区制100周年を迎えます。その節目にあたり、浪速区の歴史を区内11地域の皆さんと座談会で振り返る連載企画です。第10回では、日本橋地域の皆さんに当時の思い出やエピソードなどを伺いました。
■宿場まちとして栄えた長町
岩上さん 江戸時代の日本橋筋 堺筋は公儀道 幕府の管理する道でした。公儀道は長堀橋から始まって南へ日本橋、名呉橋 今の阪神高速1号線のえびす町入口まで来て、今の恵美須の交差点のところで奈良街道と紀州街道に分かれていました。交差点から西に折れて1筋目の道を北に折れて遡る街道は住吉街道と言いました。東西は住吉街道から今の日本橋公園の東側の道まで、南北は道頓堀の日本橋から今の恵美須の交差点までのエリアを長町と言い、旅籠 旅館がたくさんありました。
区長 今のオタロードは住吉街道の一部なのですね。
宇野さん 北浜から日本橋1丁目までを堺筋といい、そこから南は紀州街道になっていました。日本橋1丁目に公儀橋がありましてね。でも島之内は夜間は立入禁止だったので、旅人は島之内から外に出なければいけなかった。それで八軒家浜にも長町にも旅館が多かったんです。分銅河内屋という旅籠には弥次さん喜多さんの十返舎一九 東海道中膝栗毛の作者も泊まったそうです。
江戸時代、紀州藩のお殿さんが参勤交代で大阪に来た時は、日当で人を雇って共揃えをして、千人か二千人の行列を作って市中に入るんですが、そのアルバイトをする人間が長町にはたくさんいたんです。
◆深堀り 長町
日本橋は、現在の堺筋にあたる紀州街道沿いに架けられた公儀橋でした。鎌倉時代頃までは海辺で名呉の浜と呼ばれ、堺筋あたりが海岸線で恵美須町交差点付近が港だったといわれています。陸地化に伴い名呉町と称され、細長いまちの形から長町と改められました。その後、1972 昭和47年に長町1から5丁目を日本橋と改称、さらに1872 明治5年に日本橋と旧長町6から9丁目はすべて日本橋筋 注 1980 昭和55年に日本橋に改称 と改称されました。えいわ歴史ものしり展 日本橋往来 えいわのある街いま・むかし1参照
■発想豊かな大阪人 盛んだった番傘作り
区長 長町はずいぶん市街地化していたようですが、それ以外の地域はどのような様子だったのでしょう。
岩上さん 長町の東も西も、昔は畑でした。住吉街道と紀州街道の間に、油を搾って大阪のまちに売りに行って生計を立てていた方が多くおられました。油を搾って出た粕 カスは畑に捨てに行っていたんですが、このあたりは砂地ですので、その砂地と油粕が合わさって良い畑ができたんです。そこで難波葱や金時にんじん、蕪 かぶらなどを作っていました。明治の時代になって難波駅ができたときは、葱 ねぎ畑のなかの難波駅と言われたそうですよ。江戸時代、うちの寺の西側で畑を作っていた人たちの農閑期の手間仕事として番傘作りが盛んでした。番傘は傘張りをして油を塗って作ります。浪花百景の中に、油を塗って干してあった傘が突然の風で飛ばされていく様子が描かれています。傘に塗る油は、長町の油屋さんの粕油です。燃やすしかないような油を手に入れて、傘に塗ってそれを乾燥させるんです。そのまとめ役をしていたのが、御蔵跡のあたりにあった傘屋さんたちです。
油紙も和紙に油を塗って作って、大阪のまちの中に売りに行きました。江戸時代に、折りたたんで荷物の中に入れておいて雨が降ったら広げて着る、油紙で作られた携帯用の雨ガッパが流行りました。油紙は本来、書状などの大切なものが濡れてしまわないように作られたものですが、水をはじくという特性からカッパを作ったんですね。当時の大阪のまちの人の発想はすごいと思います。
長町裏遠見難波蔵 浪花百景 大阪市立図書館アーカイブネット
■履物のまち御蔵跡
区長 先ほど御蔵跡のお話が出ました。日本橋の御蔵跡は履物のまちとして有名ですが、御蔵そのものは江戸時代、今の中央区側にあったそうですね。
宇野さん 御蔵のあった辺りを総称して御蔵跡と言ったんでしょう。昔、御蔵に通じていた高津入堀川が、明治時代に南の方へ延長されました。その影響で、深田橋の近くには製材所が何軒かあって、ゲタの材料を作っていたそうです。御蔵跡に履き物屋さんが増えたのは、昭和の時代になって、関一市長が御堂筋を拡張するために、南御堂付近にたくさんあったゲタ屋さんを立ち退かせたからで、御蔵跡のところに集団で移転してきたと聞いています。
岩上さん 鼻緒屋さんとか、下駄の形に木を切る人とか、草履の台を作る人とか。そういう人たちが御蔵跡に住んでいましたからね。
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