■眺望閣と五階百貨店
区長 明治時代には日本橋地域に有宝地という遊園地ができたと聞きました。そこの目玉が眺望閣という展望台で、それが、今の五階百貨店と関係があるそうですね。
岩上さん 当時の眺望閣は5階建てで、それが五階百貨店の呼び名の始まりです。
区長 眺望閣が5階建てだったからそう呼ぶようになったんですね。眺望閣は今の五階百貨店の場所にあったんですか。
宇野さん 眺望閣はもう少し北にあったようですよ。
区長 五階百貨店は戦前からあったそうですが、戦後、いち早く商売を再開し、日本橋の復興を支えたそうですね。
中山さん 五階百貨店は日本橋4丁目交差点から150メートルほど北側、ちょうど堺筋から西へ、1つ道を隔てて、さらにもう1つ西側のところまで、バラック建てでトタン屋根の建物が南北の道路を挟んで2棟建っていました。建物の中は1メートル20センチ位の通路が東西に2列あって、店舗は幅が2メートル四方ほどでした。呉服屋、金物屋、電気屋さんやいろいろな店が集まってにぎやかでした。どの店も扉も何もなくて開けっ放しでした。皆で近くの倉庫を借りて、朝は倉庫から品物を出して、丁稚 でっち車で店に運んで下ろす。夕方にまた品物を積んで倉庫に入れる。だから夕方になったら店の中はからっぽでした。
岩上さん 戦前、日本橋では古本や古着、あるいは果物や野菜が売られていました。戦後、ジャンクといって進駐軍の払い下げの通信機を分解した、真空管などを売り出しました。それが電気屋街の始まりです。そういったものを売っていた人たちが、今でいう白物家電を作って売るようになって、小売のお店がずらっと店を構えたというのが日本橋の電気屋街です。
田原さん 私は1948 昭和23年の生まれですが、父は家電ではなく重電関係のモーターなどを扱っていました。使えなくなったモーターを、コイルを巻き替えて売っていました。よく売れたそうです。山崎貴監督の映画オールウェイズ三丁目の夕日の時代描写は、私が子どもの頃の日本橋を思い出させます。
◆深堀り 五階百貨店
1888 明治21年、大阪で最初の高層建築である5階建ての展望台眺望閣ができ、ミナミの5階と言われる大阪名所となりました。周辺にできた古着や古道具などを売る露店は当時流行語であった百貨店と組み合わせて五階百貨店と称され、1904 明治37年に眺望閣が取り壊された後も残りました。現在大阪名物五階と看板のある建物は1946 昭和21年頃に建てられたもので、今もこのエリアを表す名称として残っています。えいわ歴史ものしり展 日本橋往来 えいわのある街いま・むかし1参照
■地域が誇る文化財 大乗坊と髙島屋東別館
宇野さん 地域が誇る文化財大乗坊と髙島屋東別館以前はこんなに食べ物屋さんはありませんでしたし、コンビニも増えました。今はインバウンドの需要があるので成り立っていますが、それが収まったら果たしてどうなるのか。東京の中心街のように店がなくなって、楽しみでこのまちに来る人がいなくなってしまうのではないか。
そんな中で、毘沙門さん 大乗坊と高島屋の東別館があることはありがたいと思っています。それを目的に人が来てくれますからね。どちらも国の重要文化財に指定されています。
区長 大乗坊にある毘沙門天王立像は日本四大毘沙門天王像の1つで、非常に古い歴史があると伺っています。もとは今の天王寺区役所のあたりにあったそうですね。
岩上さん 織田信長の焼き討ちに遭って流浪していたのですが、江戸時代の初めに灰屋さんの別宅を譲り受けて、そこにお寺を建てて再興しました。主になる毘沙門天の首は、奈良時代の毘沙門天のものと伝わっています。仏頭だけを持って流浪してこの場所に来て、それから下の体を作って、秘仏として祀っています。
中山さん 堺筋は今の御堂筋ができる前は大阪のメインストリートでした。髙島屋東別館は堺筋にありますが、もとは百貨店の松坂屋でした。今の日本橋小中一貫校の南東角に昔、住吉街道の西の六道の辻がありました。今はどこも4つ辻ですが、昔はそこに6つの辻があったんです。悪いことをした人を追いかけて来ても、六道の辻まで来たらどこへ行ったかわからず、捜しようがなかったようです。今もその案内石が残っています。
木造毘沙門天王立像 写真提供 大乗坊
■これからの地域へ寄せる思い
岩上さん 最近の日本橋の変貌はものすごいです。寺の周りにもホテルが増えて、そういうものに取り囲まれているように感じます。まちが変わってくる中で、1番さみしいのは子どもが少なくなったことです。われわれのまちを残すうえで、本当の日本橋を知ってる人が残ってくれるかどうかが1番の心配です。たくさんの外国人観光客が毎日、うちの寺にもやってきます。彼らはスタンプラリーのような感覚で来るのですが、本尊さんをお参りしてくださいとできるだけ案内するようにしています。日本の古くからあるものを大切に残していく努力をしていかなければならないと思っています。
田原さん 日本橋は住んでいる人よりも、働きに来る人や遊びに来る人たちの方が多いので、そういう意味で将来が心配になることはありますが、戦災で焼け野原になって何もなかったところから、あのように電気屋街になり、それが傾いても今やポップカルチャーのまちになっています。日本橋という地域は本当に不思議な地域で、私はまちは姿は変わろうとも、これからも発展していくだろうと楽観的にみています。もちろん治安の問題は出てきます。たくさんのお客さんに、外国の方も含め安心してこのまちに来てもらいたいので、今、住んでいる地域の皆さま、テナントの方々と力をあわせて、そのためのより良い環境を作っていかなければならないと思っています。
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