■浪速区の生い立ちを振り返ります ボリューム4
大坂落城後、徳川氏が天下を握り、大坂城主の松平忠明は、堀川の開削や三の丸を新たな市街地として伏見町人を移住させました。また、接近する村落の寺院を3か所に集め、大坂七墓の建設など市街整理を行いました。
その後、大坂は幕府直轄地として諸役人がおかれ、市中は北組・南組・天満組の大坂三郷を形成しました。村内では庄屋・年寄の三役制が設置され、農村の政治にも力が注がれました。
この頃の当区一帯は、住吉街道の入口としてにぎわい、農村として発展しました。難波・木津・今宮・西高津・勝間・中在家・今在家・吉右衛門肝煎地 イコール大坂の陣後に武家地・町人地として再活用されなかった場所で、高津屋吉右衛門が仲介・世話をした地 は、畑場8か村として著名な畑地で、難波村の葱・藍、木津村のかんぴょう・しろうりなどが名産として知られていました。
これらの産物は、張りめぐらされた水路で天満青物市場に運ばれていました。あまりにも遠いため、道頓堀や湊町あたりでの立売りを正式な市場として許されるよう嘆願しましたが、そのつど天満市場などから苦情が出され、95年間に及ぶ運動が続けられました。文化6年、13品 大根・菜類・茄子・葱・人参・冬瓜・白瓜・南瓜・西瓜・若牛蒡・分葱・芋類・蕪に限り、立売りが認められ、これが木津市場の起こりといわれています。
1887 明治20年頃の難波中2丁目あたり南海電鉄と難波御蔵 米蔵がある。あたりは一面ねぎ畑で松林などが散在していた。奥に見えるのはパノラマ館 360度を見渡せる絵画とジオラマを組み合わせた劇場型施設である。
問合せ:区役所 総務課 企画調整
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