
■最終回 第11回 恵美地域
2025 令和7年、浪速区は区制100周年を迎えます。その節目にあたり、浪速区の歴史を区内11地域の皆さんと座談会で振り返る連載企画です。第11回では、恵美地域の皆さんに当時の思い出やエピソードなどを伺いました。
参加者 後列左から 大原克美さん、田河和美さん、新井泰男さん、菅野喜久男さん、槇喬さん
前列左から 鍋島加津子さん、朝野敏之さん、幡多区長、大南勇吉さん、髙橋慎太郎さん
■俳人 小西来山
▽区長 このあたりは江戸時代、今宮村と呼ばれていて、その今宮村に居を構えた、恵美地域ゆかりの人物が小西来山ですね。
▽大南さん 1654 承応3年に今の中央区の薬種問屋に生まれた、元禄時代の代表的な俳人です。晩年にこの地に居を構えて十萬堂と名付けて閑静な余生を送りました。住居は戦災で焼けてしまいましたが、その石碑が恵美須西2丁目に建っています。
大阪の真ん中に住みながら、お奉行の名さへ覚えず年の暮という句を詠み、それが奉行の耳に入って立腹され、この地に移ってきたそうです。時雨るるやしぐれぬ中の一心寺という句は、十萬堂から一心寺までの当時草原だった情景を眺めて詠んだと言われていて、一心寺に句碑があります。墓は一心寺と、今宮戎神社の隣にある海泉寺にあります。
小西来山十萬堂跡の碑
■まち工場が多かったかつての恵美地域
▽区長 村はその後大阪市に帰属し、地名や町名も時代とともに変わりました。以前は、馬淵、水崎といった地名があったそうですね。
▽菅野さん 今、ヨロベースがあるあたりが馬淵町でした。馬淵町には昔、ケンコーチョコレートという工場がありました。
槇さん アライ鉱泉というラムネ屋さんもあったんじゃないかな。
▽鍋島さん 私が1968 昭和43年にお嫁に来た時の住所が馬淵町でした。馬淵町にはまち工場が多かったんですよ。金属工場のほかに、化粧品の工場もありました。
▽大南さん はい。今の星野リゾートのある場所には昔、中山太陽堂のクラブ化粧品の工場がありました。
▽朝野さん 友だちがそこに働いていて、その化粧品をよくいただきました。
◆深堀り 中山太陽堂と通天閣
中山太陽堂は、化粧品雑貨卸売業として1903 明治36年に創業した会社で、初代通天閣 1912 明治45年から のエントランスの大天井に、クジャクや季節の花々を配した大変華やかな、クラブ化粧品の天井画広告を掲出していました。2015 平成27年に、現在の2代目通天閣 1956 昭和31年から に初代通天閣の天井画の復刻版が寄贈され、当時の商品名 クラブ洗粉、クラブ白粉、クラブ歯磨、クラブ化粧水とともに鮮やかな天井画が復刻しました。クラブコスメチックスホームページ参照
▽区長 戦争で焼け野原になった後、この地域にはいろんな工場が建ったんですね。大原さんは戦前のお生まれですが、戦争の記憶はありますか。
▽大原さん 私は大阪大空襲の経験をしました。6歳の時でした。このまちの中を逃げまどったのを覚えています。もう、凄かったですよ。焼夷弾のせいで、広い道路も何もかも燃えていました。母に手をつながれて天王寺駅まで逃げました。道中、焼死体がたくさんありました。昔は馬が交通手段だったので、かわいそうに馬の死骸もたくさんありました。天王寺駅に着いたら、驚いたことに国鉄は動いていました。空襲であっても動いていたんです。
■今宮戎神社と十日戎
▽区長 恵美地域といえば、今宮戎神社と十日戎も有名です。
▽新井さん 神社の創建は、西暦600年と伝えられています。
▽菅野さん 私は1947 昭和22年生まれですが、小学生の頃の十日戎の露店は、神社のまわりと廣田神社まで、神社の東門から堺筋までの間しかなくて、今ほど広くはありませんでした。今の阪神高速道路の下は、昔は川だったんですが、それが埋め立てられてから、露店が広がったんだと思います。
ちなみに川には橋が架かっていて、今宮戎神社の北側にあったのが廣田橋。紀州街道に架かっていたのが夕日橋です。
▽大原さん 昔、十津川屋といううどん屋さんがあって、橋がなくて皆、困っていたので、そのうどん屋さんが私財で、そんなに立派ではない細い橋でしたけど、川に木の橋を架けたんですよ。その後に、夕日橋ができました。
▽槇さん 川には材木がいっぱい浮かんでいました。川べりには材木屋が多かったです。川から材木を引き上げて作業場で製材をしていました。作業場の上階に人が住んでいました。表の道路から見ると地下が作業場で、1階部分が住む家になっていました。
◆深堀り 今宮戎神社
商売繁盛の神様で十日えびす えべっさん 毎年1月9日から11日は商売繁盛笹持ってこいの掛け声もにぎやかに福笹をもとめる参拝者で、新春早々のまつりとしてにぎわいます。事代主命 ことしろぬしのみこと・えびすがみは、もともと漁労民の信仰に始まり、中世に入って市神様として祀られ、大阪の商工業の発展とともに商売繁盛の守神として信仰されてきました。元禄時代には今日と同じような祭礼が始まりました。正面で参拝後社殿の裏へ回ってドラを打ち、再度お願いする習慣があります。
大阪市立図書館アーカイブネット 今宮蛭子宮 浪花百景
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