
浪速区の生い立ちを振り返ります ボリューム5
徳川末期の当区は一面が畑で、松原や農家が点在していました。1854年1月、大坂にロシアの軍艦が渡来し、人々は異国の黒船に目を見張り驚きました。この騒ぎが終わりかけた頃に安政の大地震と津波が起こりました。大地震両川口津波記 口語訳より抜粋
1854 嘉永7年11月4日午前8時ごろ、大地震が起きた。空地に小屋掛けしたり、老人や子どもの多くは小舟に乗っていた。5日午後4時ごろ再び大地震が起きた。家が崩れ出火し、恐ろしい様子であった。ようやく治まった日暮れ頃、雷のような響きがとどろき、津波が押し寄せた。安治川、木津川に山のような大波が立ち、東横堀まで泥水が4尺 約130センチメートルほど流れ込んだ。
停泊していた大小の船は碇の綱を打ち切られ、一瞬の間に川上へ遡り、その勢いで、安治川橋、日吉、幸、住吉、金屋橋など、ことごとく崩れ落ちた。道にあふれた水に逃げ惑い、橋から落ちる人もあった。大きな船が横倒しになり、川下から入ってきた船が小舟を下敷きに次々に乗り上げ、川筋は、破船で山のようになった。掛けづくりの納屋を大船が押し崩す物音や人々の叫び声が響き渡ったが、急で助けることもできず、おびただしい水死者が出た。
大正橋東詰に死者の冥福を祈り建てられた石碑にはすべての大地震の時は、津波起こらんことを心得て、必ず船に乗るべからず。家崩れて出火あらん。火用心肝要也と後世の人のための戒めも刻まれています。
安政大津波の被害を伝える瓦版より 大阪市立中央図書館所蔵
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