
大阪被団協 枚方市原爆被害者の会会長
森 容香さん
◆もり ようこ
5歳の時、広島の爆心地から約1.8km圏内で被爆。中学卒業後に集団就職で大阪へ。退職後、高齢の被爆者が少なくなる焦燥感から本格的に語り部として活動。蹉跎生涯学習市民センターで月に1度、さだ子ども食堂の会長としても奮闘中。南中振在住。84歳。
◆ノーベル平和賞を力に核兵器廃絶に向け命ある限り、もうひと踏ん張りします
昨年、被爆者の立場から核兵器の廃絶を訴えてきた日本被団協のノーベル平和賞受賞の一報が国内外を駆け巡った。友人たちからの祝福に「最初はまさかと思ったが、長年取り組んできた草の根運動を世界の人に理解してもらえたことは本当にうれしかったですね」
5歳の時、広島の爆心地から1.8km圏内の自宅で被爆。戦地にいた父を除く母と自身を含むきょうだい5人が偶然斜めに落ちた屋根の隙間に吹き飛ばされた。火の手があがる前に先に避難するよう母親に促され姉と2人で近くの竹やぶまではだしで逃げた。「皮膚を垂らし歩く人や川で水を飲もうとしたまま亡くなっている人もいて生き地獄でした」。爆心地から2km圏内は全滅と言われた中、竹やぶで家族全員が再会。しかし水や食料は何一つなく「残ったのは被爆した体だけでした」。郊外の父方の実家へ避難することを決意し移動する道中で「集落の人たちが自分の食料もままならない中、移動の車を手配し、約1週間、家に泊めて世話をしてくれたんです」。逃げ延びたものの被爆者であることで学校では心ない言葉でいじめを受け、肩身の狭い貧しい生活が続いた。
中学卒業後、集団就職で大阪へ。「結婚が破談になった知人もいて母には被爆者であることは隠したほうがいいと言われました」。被爆者であることを秘めながら60歳まで懸命に働き続け、2人の子を育てあげた。
退職後、本格的に語り部として活動し、市内外の小中学校や講演会などで「戦争をして得るものはない。ただ人が死ぬだけ。対話が大切」と訴えている。また、子ども食堂の会長としても奮闘中だ。「被爆後、集落で助けてもらったことが根底にあるんです」。今年は戦後80年の節目の年でもある。「唯一の戦争被爆国である日本の核兵器禁止条約の批准に向け、署名運動を続けていきます。ノーベル平和賞受賞を力に、命ある限り、もうひと踏ん張りしますよ」
<この記事についてアンケートにご協力ください。>