文字サイズ
自治体の皆さまへ

市史編纂(さん)だより わがまち歴史散歩 Vol.160

64/80

大阪府池田市

■幕末〜明治初期 町の構造と家の維持
▽町の「地主」と「借家人」
池田の町のひとつ南新町(現新町の一部)では、明治6年から17年までに4冊の戸籍帳を編製しており、そこからはいろいろなことが分かると、前回記しました。
明治6年の戸籍帳では、南新町全体で98戸、そのうち、自分の住居を所持する「地主」が19戸、「借家」に住む者が79戸とされています。ところで、この戸籍帳からは両者間に広がる大きな階層差も見えてきます。
たとえば、住居の総面積を合計すると、地主は594.1坪で45.6%、借家住まいは708.95坪で54.4%となります。これを1戸当たりの平均にすると、前者が31.27坪に対し、後者は8.97坪となります。外見上も、前者の標準は間口4~5間に奥行5~10間以上、後者のそれは間口2~2.5間に奥行2~2.5間と歴然です。(1坪=約3.3平方メートル、1間=約1.8m)
もちろん、借家の中には47坪を超える広さを持ち、地主と遜色ない人もありましたが、それはやがて地主に向上していくステップのようなものでした。
さらに指摘しておくならば、地主と位置付けられる家は田や畑あるいは屋敷地などの情報が記され、年貢を負担する百姓身分であることが判明します。一方、借家住まいの者は、ごく一部の例外を除き、それらを持っておりませんでした。だから、身分上は一段下に置かれていたのでしょう。なかでも、地主の中の4戸ですが、全部で81戸の借家を有し、借家人を統制する力も持っていたことをうかがわせます。同じ住民といっても、大きな格差があったのです。

▽大事な課題は家の存続
南新町の戸籍帳には、地主・借家を問わず、それぞれの家の当主について、その地位に就いた事情、またこの町に住み、あるいは消えていった事情が記されています。家の存続はいずれの階層を問わず、一大事だったことが示されているのです。
一例を挙げてみます。明治6年、間口2間に奥行2・5間の借家に50歳になる畳屋職の男性が1人で住んでいました。彼は、明治5年に大坂曽根崎村から当地に引っ越してきたばかりでしたが、明治7年、再び元の地に戻っていきます。ちなみに、明治2年には当時9歳だった一人息子を大坂松屋町に奉公に出していました。明治7年は、この子が14歳になる年です。
細かい事情は分かりませんが、大坂への再移住は、この息子に自分の跡をとらせ、それができたときには子どもの世話になり、引退しようと考えた結果ではないでしょうか。他の可能性も考えるべきですが、老後に対する社会的な保障が一切なかった時代、息子への期待は今考える以上に大きかった事情をまずは考慮すべきでしょう。

▽当主が亡くなったとき
当主の喪失は家の存亡が問われるときでした。
地主であった家の当主が死去した跡については、男性実子の相続が10戸、妻の相続が1戸、養子相続が7戸(うち1戸は女性)でした。妻が跡を継ぐ、あるいは養子として女性が入家し、跡を継ぐというのは、家族や親戚に成人の男性が見当たらなかった場合でした。
借家に住んでいた人の場合、父の死去後成人男子の実子が跡を継いだのが22戸、妻が跡を継いだのが14戸、養子相続が20戸(うち1人は女性)、夫と離別していた女性が1戸でした。夫死去後妻の相続が地主より多いところに特徴が見られます。
借家に住む人、特に女性は、経済的に苦しむことが多かったようです。借家を維持することができず、他町や池田以外の村への引っ越しなど、やがて戸籍帳から消えていくことも珍しいことではありませんでした。家族はそのときどうなっていくのでしょうか。気になるところですが、今は分からないとしか言いようがありません。

(市史編纂委員会委員長・小田康徳)

問合せ:社会教育課
【電話】754・6674

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU