■日本ウイスキー100年史と北摂
◇日本ウイスキー誕生
今から100年前、大正13(1924)年12月に日本ウイスキーの最初の一滴が、北摂の山崎蒸溜所(島本町)で滴り落ちました。「赤玉ポートワイン」のヒットを元手に本格ウイスキー事業に進出した寿屋(現・サントリー)の鳥井信治郎と、本場スコットランドに留学した日本人初の蒸留技師の竹鶴政孝(ニッカウヰスキー創業者)の2人による偉業です。
日本ウイスキーは世界5大ウイスキーに数えられ、21世紀の世界的コンペティションで、サントリーやニッカに限らず多数の銘柄が世界一の栄誉に輝いています。最近では海外オークションで驚くほどの高額で落札されるなど、世界的に人気が高まっています。
しかしその出発は、苦難の連続でした。ウイスキーは原酒を長期間貯蔵し、貯蔵年数の異なる原酒をブレンドして製品化するため、時間と資本を要します。操業開始から原料が搬入されるばかりで製品が出荷されないため、山崎工場には「ウスケ」という麦を食う化け物が住んでいるとのうわさが立ったほどです。ようやく昭和4(1929)年に発売された最初の国産ウイスキー「白札」は、スコッチ特有のスモーキーな香りで敬遠されました。そのてん末は、NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」(平成26年度)に描かれました。
生来の嗅覚とでっち奉公で磨いたブレンド技術で「赤玉」を開発した信治郎は、自らウイスキーのブレンドに乗り出します。山崎からあらゆる原酒を雲雀丘の自宅に持ち込んで商品開発に没頭し、昭和12年発売の「角瓶」がようやくのヒットとなりました。
なお、信治郎は大正10年ごろに池田町満寿美、翌々年に雲雀丘住宅に転居しました。明治43(1910)年に箕面有馬電軌(現・阪急電鉄)を開通し、沿線の室町住宅(現・池田市室町)を開発した小林一三の娘は、信治郎の長男と婚姻しています。
◇北摂で育った佐治敬三
寿屋は、戦時中は海軍、戦後は米軍にウイスキーを納入し、米軍兵士用の銘柄を「トリス」として発売しました。「トリス」はキャラクターのアンクル・トリス、キャッチコピー「人間らしくやりたいナ」、PR誌『洋酒天国』などの宣伝も手伝って、戦後のウイスキーブームをけん引し、日本に「洋酒のある生活」を定着させました。
寿屋宣伝部を率いた信治郎の次男・敬三(1919~99年)は幼少期から北摂で育ち、池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)に通い、佐治家の養子となった後も雲雀丘の鳥井家で生活し、海軍から復員して寿屋に入社します(詳細は「市史編纂だより」第89回)。
敬三は昭和36(1961)年に社長とマスターブレンダーの地位を父から引き継ぎ、名実ともにウイスキー製品の最高責任者となります。ちなみに昭和38年のビール事業参入を機に、社名をサントリーに変更しています。
スコッチを理想としたニッカに対し、敬三は日本独自のウイスキーを追求しました。香味豊かで調和のとれたウイスキーをめざし、昭和47年には水割りを和食と合わせる「二本箸作戦」を展開しています。敬三が手がけたシングルモルト「山崎」(1984年発売)、高級ブレンデッド「響」(1989年発売)は、ジャパニーズ・ウイスキーの一つの方向性を示しました。
※本紙画像はいずれもサントリーホールディングス(株)提供。
(市史編纂委員会委員・松永和浩)
問合せ:社会教育課
【電話】754・6674
<この記事についてアンケートにご協力ください。>