弥生時代:動かなくなること、動けなくなること
■農耕の始まり
稲作を中心にアワ・キビなどの畑作を複合させた食糧生産である農耕が、中国大陸から朝鮮半島を介して日本列島にもたらされたことを弥生時代の始まりとしています。その背景には、当時の気候の寒冷化が朝鮮半島南部から日本列島への「ヒト」の移動を促したことがあると考えられています。
現在のところ、前方後円墳が出現する3世紀半ばから後半までを弥生時代としていますが、始まりについては紀元前6世紀前後と、紀元前10世紀前後とする2つの説が対立しています。ここでは、前者の立場で進めたいと思います。
■自然環境の改変と道具
農耕の始まりは、自然と共生してきた縄文時代までにはなかった、開墾という自然環境の改変の始まりを意味します。現在に至る開発の原点がここにあります。
また、もたらされたのは、稲などの栽培植物だけではなく、田畑の耕作から、栽培、収穫、脱穀、調理はもちろんのこと、衣食住に関わるさまざまな知識や技術、そしてこれらを具体的な形にする各種の道具類が含まれています。その主役は木製品です。伐採から加工に至る過程には、朝鮮半島から持ち込まれた各種の石斧やさまざまな石器が使用されました。このような変化は、農繁期と農閑期というサイクルからなる、近代化以前の日本の生活様式と農村風景を生み出すことになりました。
■資源をめぐる確執
生産性の高い稲作を中心とする農耕は、人々に安定した生活をもたらした半面、年間を通して集約性の高い労働を必要としたために、田畑に縛りつけられた動かなくなる、動けなくなる生活を強いることになりました。意外に聞こえるかもしれませんが、現在の都道府県・郡・市町村の原形がこの時代に出来上がったといっても良いと思います。また、継続的な農耕には、耕作地やかんがい施設などの維持、管理に組織的な協業が欠くことができないことから、生活の安定に伴う人口の増加とも相まって、集落や地域を統合して大型化していく社会の仕組みも生まれてきました。
朝鮮半島からの「ヒト」の移動はその後も断続的に続き、あわせて青銅器、さらに鉄器と、より高い機能を持った多様な道具がもたらされることになりました。その中には、殺傷能力を持った金属製武器も含まれています。耕作地に適した土地や優れた金属製の道具は生産力の優劣に直結するものであり、例えば墳墓の副葬品にあらわれた格差は、これら限られた資源をめぐる確執が集団内のあるいは集団間の格差を生む要因になっていたことを示しています。
■猪名川を遡上(そじょう)して拡大する農耕社会
現在、本市域で見つかっている最も古い弥生時代の遺跡は、前期末(紀元前3世紀ごろ)の木部遺跡(木部町)です。猪名川流域では、下流域に木部遺跡に先立って田能遺跡(尼崎市・伊丹市)や勝部遺跡(豊中市)が出現していることから、北部九州地域にもたらされた農耕は時を置かず東進し、これらの遺跡を起点にして猪名川を遡上して拡大していったことが分かります。中期(紀元前4世紀ころ)には、石橋4丁目から住吉1・2丁目一帯に広がる複数の小規模な集落から構成される宮の前遺跡が形成されています。対岸には大規模な加茂遺跡(川西市)が出現し、猪名川流域が複数の有力集団を核にして展開する本格的な農耕社会へと変貌していった過程を復元することができます。
(市史編纂委員会委員・田中晋作)
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