■つながる河内長野
(※詳細は本紙またはPDF版を掲載写真と共にご覧ください。)
・昭和30年代 今では見られない懐かしい光景が広がっています
昭和30年 河内長野駅
昭和31年 石仏青年団土俵開き
昭和33年 牛のせり市
昭和42年 市民憲章制定宣言大会
昭和43年 小山田へバス乗り入れ
・住宅団地が次々と開発され、人口も増加していきました
昭和51年 河内長野工業団地完成
昭和59年 市内全小学校で給食開始
昭和60年 保健センター業務開始
・インターネットや携帯電話が普及し、世界とつながる情報化社会へ
平成6年 米国カーメル市と国際姉妹都市提携
平成13年 子育て支援センターかわちながの
平成14年 モックルコミュニティバス運行開始
平成24年 あいっくオープン
平成29年 奥河内くろまろの郷が「道の駅」に登録
・令和になるとコロナ禍で外出自粛 テレワークなど新しい生活様式が浸透しました
令和3年 新型コロナウイルスワクチン接種開始
■70年の歩み
昭和29年4月、人口3万1052人で発足した河内長野市。
今回は長く本市で暮らす方々にお集まりいただき、あのころの河内長野、そしてこれからの河内長野について貴重なお話をお聞きしました。
みなさんも過去と未来に思いを馳せてみませんか。
▽江口さん
昭和45年、貴望ケ丘の住宅地が造成された後、昭和48年に河内長野へ。市観光ボランティア倶楽部の会長を務めている。
▽井之本さん
生まれも育ちも鳩原。左写真は母が仕立てた服を着た井之本さん。観心寺保育園の一期生で、右写真は下駄をはいている先生や当時の観心寺のご住職と一緒に撮影したもの。
(※写真は本紙またはPDF版をご覧ください。)
▽西野さん
平成元年、自然が豊かな土地で子育てがしたいと河内長野へ。美加の台の住宅フェアは高倍率だったが運よく当選し、大阪市内から移り住む。
○活気があった子ども時代
井之本:私が生まれたころは、宅地造成は始まっておらず、道路も舗装されていませんでした。赤ん坊の私を母がおんぶして、美加の台の赤坂上之山神社へ神ガ丘からお参りに行くのも、草をかき分けて道なき道を登ったそうです。
江口:寺ケ池周辺も開発前はアカマツに囲まれていて、知り合いが魚釣りに来ていたそうですよ。
私は学生の時に河内長野に引っ越してきました。友だちと難波で遊ぶために千代田駅に行くのですが、道路状況もあまりよくないので雨が降ると足に泥が掛かっちゃって。大和川手前で天気が変わることもあり、こっちで雨が降っていても難波は晴れてることもよくありました。1人だけ泥だらけで(笑)。
井之本:河内長野駅の近くにはアイスキャンディを売っている店があって、たまに祖母が買って帰ってきてくれるのが楽しみでした。20分かけてボンネットバスに乗って帰るので、溶けないように発車直前にアイスを受け取るのですが…当時は冷蔵庫もありませんでしたから、涼しい所に新聞紙にくるんで置いてくれているのですが、私が帰るころには棒が見えるくらい溶けていました。それでもうれしくって。
西野:昭和は市内も住宅開発が盛んに行われていました。ニュータウンは伊藤忠や旭化成など大手企業が宅地造成していった時代です。住宅フェアというのがあって、抽選で住宅がどんどん売り出されていました。
江口:昭和は日本全体に活気がありましたね。東京オリンピックの時は、裸足で有名なアベベ選手を小学校の視聴覚室でみんなで見ましたし、大阪万博では北欧の国のパビリオンでミートボールを食べたのを覚えています。アメリカ館の月の石を見るためにパビリオンの周りで3〜4時間並んで、見るのは一瞬でした。
西野:外国の人自体が珍しかったので、万博に来た外国人にサインをもらったこともありましたね。全然知らない、ごく一般の人ですけど(笑)
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