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人権コラム「しあわせ」

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大阪府河南町

◆認知症をめぐる50年

6月号で担当させていただいたコラムでは、人権の知識はどんどんアップデートされるので、新しい知識を学んだばかりの小学生から大人が学ぶこともあるだろうというお話をしました。今回は、人権のアップデートについて、また別の角度から考えてみたいと思います。

1970年代、有吉佐和子の『恍惚の人』という小説が大ヒットしました。認知症になった義父を、「長男の妻」が介護するという内容でした。この頃、日本に暮らす人々の平均寿命は伸び続けていました。長寿を全うする人が増えるにつれ、認知症が社会問題化しました。つまり、それまでの社会では、認知症になる前に亡くなる人が多かったのです。

『恍惚の人』を読むと、1970年代の当時の介護をめぐる状況を知ることができます。介護保険もデイサービスもありませんでしたし、介護施設もわずかしかなく、ほぼ入所は叶わない状態でした。自宅のバリアフリー化もありません。頼れるのは、医者の往診と、老人会ぐらいでした。小説の舞台は東京ですから、これでも設備が整っていたほうだったのかもしれません。

そもそも、認知症なんて言葉もありませんでした。「痴呆」という、今から考えれば、かなり差別的なニュアンスのある言葉が使われていました。

じゃあ、そんな状況の中でどうやって、認知症の高齢者を介護していたのだろうと、その時代を知らない人は、不思議に思いますよね。

当時は、ほぼ家族だけで介護していました。配偶者の女性(女性のほうが平均寿命が長いのと、歳の差で結婚している場合が多かったので、夫が介護を受ける側になることが多かったのです)か、長男の「嫁」に介護が期待されることが多かったのです。当時は、結婚した女性は、専業主婦である場合も少なくありませんでしたので、介護は「主婦」の役割でした。いえ、女性が仕事を持っていたとしても、介護の期待は女性に向けられました。

そんな中では、当然、介護に限界が来ます。徘徊したり排泄物をさわろうとする高齢者をベッドに縛りつけたり、注意しても理解できない高齢者に暴言を吐いたり叩いたりするといったことも、しばしば起こりました。今の感覚からすれば虐待に相当することが、家庭の中で頻繁に起こっていたのです。しかし、もう我が家は限界だと叫んでも、誰も助けてくれないのです。

80年代末以降、ゴールドプランが策定され、介護保険が整備され、介護が一定程度、家の外に任せられるようになりました。また、認知症に関する理解も進みました。現在も高齢者虐待が完全になくなったわけではありませんが、介護を家族「だけ」でやっていた頃よりも、認知症の高齢者が安心して暮らせる体制は整ってきたといえるでしょう。

このように、日本の認知症介護の変化をみていくと、人権というのは「高齢者にやさしく」といった心の持ちようだけでは守ることができず、社会の制度や法律のアップデートによっても守られるのだなということを、しみじみと感じることができるのではないでしょうか。

齋藤直子(大阪教育大学特任准教授)

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