文字サイズ
自治体の皆さまへ

ふじいでら歴史紀行 201

42/47

大阪府藤井寺市

【さまざまな歴史を刻んできた船橋遺跡(4)~古代の志紀郡と船橋遺跡~】
7世紀になると、中国を統一した唐が高句麗(こうくり)を討ち、百済(くだら)を滅ぼすなど、朝鮮半島の国や古代の日本の倭(わ)に大きな圧力をかけました。これを背景に、倭は唐の律と令を模範とした律令(りつりょう)制(※1)というシステムをつくり、国家の存続のため、強力な中央集権体制による律令国家へと移り変わっていきました。律令国家は、諸国の行政機関を国(こく)・郡(ぐん)(評(ひょう))・里(り)の三段階に分け、地方統治の拠点として国府(こくふ)を設置しました。現在の藤井寺市域は、志紀郡(しきぐん)の南半分と丹比郡(たじひぐん)の一部に該当します。船橋遺跡は志紀郡に含まれていました。
古代の志紀郡にどのような人々が暮らしていたのかは、様々な文献史料からその一端を伺うことができます。志紀郡には渡来系の氏族が多く住んでおり、中には官人として平城京や平安京で活躍した人もいるようです。例えば、平城宮跡の東南部から出土した、奈良時代後半のものとみられる木簡(もっかん)(※2)を見てみましょう。出土場所の北には式部省(しきぶしょう)(※3)があり、同じ場所からは考課(こうか)という官人の勤務評定に関するものや昇進の手続きに関するものなど、大量の式部省関係の木簡が出土しています。この木簡も考課関係木簡で、村合氷守公麻呂という人の考課事務に備えた個人カードです。この木簡には、従八位下(じゅはちいのげ)の村合氷守公麻呂は54歳で本籍地は河内国志紀郡、昨年の考課の結果は「上」であったことが書かれています。下の方には、船稲という人によって、村合氷守公麻呂の今年の勤務日数が210日であることも記されています。こうした木簡の他、『古事記』、六国史(りっこくし)(※4)、古文書などにも志紀郡にいた人々の名前が登場します。志紀郡は主要な官人補給地の一つだったのでしょう。
さて、古代の船橋遺跡は、河内国府、志紀郡衙(ぐんが)、船橋廃寺、市、河内鋳銭司(ちゅうせんし)などの存在が諸説唱えられています。河内国府は国府(こう)遺跡が有力な候補地ですが、その実態は明らかではありません。政庁と捉えることもできる遺構の存在などから、船橋遺跡やはざみ山遺跡が河内国府とする説や、2回あるいは3回国府の場所が変わったという説もあります。市は、餌香市(えがのいち)が存在したとする説があります。石川下流域を餌香川とする記述などから、石川下流左岸周辺が餌香に相当すると考えられています。この餌香市は、『日本書紀』雄略十三年三月条ですでに記述されている他、『日本霊異記(にほんりょういき)』の「河内の市の付近の井上寺」という記述から、河内の市が餌香市を指し、井上寺は船橋廃寺や衣縫(いぬい)廃寺を指すという説もあります。船橋遺跡もしくは国府遺跡に餌香市が存在した可能性が高いとみられますが、いずれにせよ、この地域に市を設置したのは交通の要衝であったからなのでしょう。
このように、古代の船橋遺跡周辺は多様な性格が推定されている場所です。今後、発掘調査や研究が進むことでその性格が明らかになっていくことを楽しみにしたいと思います。
(文化財保護課 河合 咲耶)
(※1)刑法である律と行政法である令の体系によって形成される国家統治の体制を指します。日本では、7世紀以降に整備されていきます。
(※2)文字を記した木の札。古代では、紙の文書とともに情報伝達に広く用いられました。記された内容は、記録・帳簿などの文書、物品の付札や貢進物の荷札などに分けられます。
(※3)内外の文官の人事をつかさどった部署。官人の勤務評定、これに基づく叙位・任官などに関する事務などを行っていました。
(※4)奈良・平安時代に、律令国家により編集された『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀(にほんこうき)』『続日本後紀(しょくにほんこうき)』『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』『日本三代実録』の六つの正史の総称。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU