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ふじいでら歴史紀行 198

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大阪府藤井寺市

【さまざまな歴史を刻んできた船橋遺跡(1)~船橋遺跡はどんな遺跡?~】
船橋遺跡は、大和川をはさんで藤井寺市域北東部分(大井・川北・船橋町・北條町)と柏原市域南西部分(大正・古町)に広がる、旧石器時代から中世にかけて連綿と続いた遺跡です。みなさんは、遺跡は古墳のように地上に盛り上がって残るものや、地面の下に眠っているものであるというイメージをもっているでしょう。実際に多くの遺跡はその通りです。ところが、船橋遺跡は少々異なる特徴があります。それは、江戸時代の大和川の付け替えにより、遺跡の多くの範囲が大和川の河床や河川敷となっている点です。
昭和23(1948)年に山本博氏によって船橋遺跡を発見された以後、船橋遺跡について多くの説が発表されました。これらが「船橋遺跡論争」として取り上げられたことで、遺跡の名前は世に広く知られるようになりました。その後、昭和29(1954)年に大和川上流に堰堤(えんてい)がつくられると、河の流れで地面が浸食されて“自然に発掘される”ようになり、多くの遺構(※1)や遺物(※2)が露出するようになりました。遺跡が失われていくことを危惧した大阪府教育委員会は大和川河床遺跡会を設立し、昭和31(1956)年から5年にわたって発掘調査を実施しました。以降今日に至るまで、数々の発掘調査や研究が行われてきました。しかし、遺跡の多くの範囲が河川であることは、発掘調査を困難にするものでした。それでも、遺跡発見から75年経つ中で、時には地表面から何メートルも下を、時には河の増水によって水没しながらも河床や堤防で、発掘調査を少しずつ積み重ねていくことで船橋遺跡の様相が少しずつ見えていきました。
船橋遺跡の集落を形作る家や大きな溝などについてはまだまだ不明な点も多いですが、どうやら、弥生時代後期後葉以降は継続的にムラを作って居住していたようです。また、遺跡の東側には石川や大和川が流れ、古代以降は大津道や長尾街道、東高野街道が付近に整備されるなど、舟運と陸路の交通の要衝でもありました。こうした立地から、船橋遺跡は単なるムラではなく、古くから他地域との交流などが行われてきたようです。他にも、飛鳥時代以降には寺院跡とみられるものやガラスや冶金(やきん)(※3)の工房とみられるものも登場することが分かっています。
船橋遺跡は、人々が生活を営んでいただけでなく、江戸時代に大和川の付け替えが行われるなど、さまざまな歴史を刻んできました。今回は6回にわたり、船橋遺跡がどのような特色を持っていたのか、これまでどのような歴史を刻んできたのかをご紹介します。
(文化財保護課 河合 咲耶)
(※1)遺跡中に残されている不動性の人間集団の痕跡。例えば、集落であれば住居や井戸など。
(※2)人間集団が残した可動性のあるもの。例えば、土器や埴輪や瓦など。
(※3)鉱石から取り出した金属を材料として加工する技術のこと。

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