文字サイズ
自治体の皆さまへ

ふじいでら歴史紀行 199

35/40

大阪府藤井寺市

【さまざまな歴史を刻んできた船橋遺跡(2)~船橋遺跡が河床に眠った~】
多くの場合は古墳のように地上に盛り上がって残るものや、地面の下に眠っている遺跡。遺跡の多くの範囲が大和川の河床や河川敷となっている船橋(ふなはし)遺跡は、どのようにして河床に眠ったのでしょうか。
付け替え前の大和川(以下「旧大和川」)は、古代から大なり小なり水害に見舞われていたようです。特に江戸時代にはいると、人口の増加などで山から木を切りだすことも増えます。山が荒れ、土が多く流れるようになったことで旧大和川は多くの箇所で天井川(※)となり、それによって洪水被害が大きくなっていきました。こうした中で、いつのころからか河内の人々の間から付け替えを求める声が上がり始めました。それと同時に付け替え後の大和川(以下「新大和川」)の周辺住民から、流路となるために土地を失うことや、新たな水害被害が起こることへの危惧などから、大和川付け替え反対運動も起こりました。最終的には、様々な利点や工事を安価にかつ早急に終了できる方法を編み出されたことなどから、幕府は大和川の付け替え工事を決定しました。
大和川付け替え工事については記録が残っておらず、実際に行われた工事の内容はよくわかっていませんが、発掘調査の成果から堤防がどのように築かれたのかはわかってきました。堤防を断ち割って土の層を確認すると、どのように土を積み上げて堤防を築いたのかがわかります。ただし一級河川である大和川の堤防を一部でも長期間にわたって断ち割ったままにすることは、洪水の危険性を考えると難しいです。そのため、これまでに新大和川の堤防の調査を実施したのは、藤井寺市小山平塚(こやまひらつか)遺跡、船橋遺跡、八尾市八尾南(やおみなみ)遺跡、大阪市長原(ながはら)遺跡のたった4か所だけです。
小山平塚遺跡では、付け替え当時の堤は堅い粘土を積み上げてつくられたことがわかりました。しかし、堤防を頑丈につくることを意識して粘土を使っていたのではありません。これを裏付けるのが船橋遺跡の調査で、ここでは付け替え当時の堤防は砂が多く混じる土を積み上げてつくられていました。堤防の場所で使う土が違うのは、単に工事現場の近辺で掘った土を使ったからだったようです。さらに、小山平塚遺跡でも船橋遺跡でも、積み上げた土をより頑丈にするための叩き締めを行っていませんでした。近くで掘り出された土を堤防工事に使い、頑丈にする工程を行わないことを見るに、堤防の強度よりも形だけを整えて付け替え工事の完成を急ぐことを優先したようです。
こうして、宝永(ほうえい)元年(1704)にわずか8カ月という短期間で大和川は付け替えられました。大半の区間で地面を掘ることなく工事が行われたことで、遺構が破壊されることなく船橋遺跡の多くの範囲が新大和川の河床に眠ることとなりました。しかし、先月号でも触れましたが、その後は河の流れで遺跡は日々“自然に発掘”されていました。現在、船橋遺跡から出土した遺物の一部は、大阪府立弥生文化博物館や柏原市立歴史資料館に所蔵されています。
(文化財保護課 河合 咲耶)
(※)河川に土砂が運ばれて河床にたまっていくことで、周囲の土地より河床が高くなった河川のこと。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU