文字サイズ
自治体の皆さまへ

知ろう 学ぼう 人権 平和特集 忘れてはいけないあの時代~二度と繰り返さないために~

3/40

大阪府藤井寺市

多くの尊い命が犠牲となった戦争が終わってから78年が経とうとしています。総務省の人口推計によると、令和4年10月現在、戦後生まれの人口は約1億979万人で、総人口の87・9%になります。戦争経験者が年々少なくなっている今だからこそ、戦争の恐ろしさや悲惨さを後世に語り継ぐことが必要です。大阪で空襲を経験した、市内在住の南 治夫(みなみ はるお)さんにお話を伺いました。

■南 治夫(みなみ はるお)さん 86歳
※当時、中本(なかもと)国民学校初等科(国民学校の初等科は6年あり、初等科は現在の小学校に相当)の1年生(7歳)だった南さんは、大阪の玉造に住んでいました。

■息をひそめて過ごす日々
大阪への空襲は、昭和19年10月頃から始まりました。森ノ宮には大きな軍事工場があり、そこをめがけて夕方から2時間ぐらい毎日のように爆撃機B29による焼夷弾を受けました。玉造は夜でも明るかったことを覚えています。町内会の持っている簡易な防空壕が近くにあり、町内会の人々をはじめ、家族みんなで避難していました。防空壕から帰宅できても、地上からサーチライトで照らされている状況でした。上空から人がいると知られないように、家の中は電灯ひとつにして、光をもらさないように、黒い紙で窓などを覆っていました。日中は飛行機2機が空から監視しているようでした。爆撃機B29よりも早くて低空を飛ぶ戦闘機グラマンは人を見つければ大人でも子どもでも関係なく襲撃するため、建物の外壁に張り付いて、息を潜めることもありました。

■切り詰める日常
若い男性はほぼ戦地に赴任しましたが、父は軍事工場の勤務を命じられました。軍事工場で働いている人には赤紙は来ません。
生後間もない弟がいましたが、母はイモや野菜などの配給をもらうため、婦人部の防火練習に参加していました。配給に米などはなく、満足できる量でもなく、母は着物などを農家へ持っていき、物々交換をしに行っていました。
私が学校へ登校してもサイレンが鳴ればすぐに帰らなければいけませんでした。

■疎開、そして終戦へ
このまま大阪にいるのは危険なため、母の親族がいる石川県七尾へ家族で疎開しようと決めました。なかなか汽車の切符が取れませんでしたが、昭和19年の11月頃にやっと行くことが出来ました。
昭和20年8月15日に終戦を迎えました。その日は飛行機が1機だけ飛んでいました。これから空襲に逃げ惑う必要がないと思うと気持ちが楽になりました。

「あの時のことを思い出すと今でも涙が出ます。戦争は二度と起きてはいけないし、起こしてはいけない、そう思うばかりです。」

■藤井寺市の平和への取り組み
藤井寺市では平和な社会が持続することを願い、昭和60年に平和都市宣言を行いました。また、平成22年には、広島市と長崎市が核兵器の廃絶を目指すために、世界の都市に呼びかけて設立された平和首長会議に加盟しました。
そして毎年、平和展を開催するなど、平和文化の振興に向けた取り組みを行っています。

問合先:協働人権課人権推進担当(1階(4)番窓口)
【電話】939・1059

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU