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ふじいでら歴史紀行 217

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大阪府藤井寺市

【道明寺の歴史を語る 2.道明寺糒(ほしい)】
道明寺は、もと土師寺と呼ばれていたことは前回述べました。これは土師氏の氏寺として創建されたことによります。その後、土師氏の後裔(こうえい)は、いくつかの名前に分かれましたが、その一つに菅原(すがわら)という名前がありました。平安時代には、一族の中で菅原道真(すがわらのみちざね)公が活躍するようになります。
当時、道明寺には道真公の伯母である覚寿尼(かくじゅに)が住んでいました。このことから道真公自身も当地を訪ねてきたと伝えられ、ゆかりの深い場所となっています。
さて、道明寺には道明寺糒(ほしい)というものがあります。糒とは、米や栗、黍(きび)などを蒸したりして天日に干した保存食のことです。古代から用いられていたようです。
ここで、道明寺糒についてみていきたいと思います。道明寺糒とは、もち米を蒸して日に干したもので、具体的には、もち米を2日間水につけて水分を吸わせます。その後、水を切って蒸したものを日に干して乾燥させて製造します。
道明寺糒の起源については、道真公が昌泰(しょうたい)4(901)年に大宰府(だざいふ)へ赴いた後、伯母の覚寿尼が九州に向かってお供えしたご飯のおさがりを分け与えました。これをいただくと病気がなおると評判になり、求める多くの希望者のために、あらかじめ乾燥、貯蔵するようになったのが始まりであると伝えられています(道明寺ホームページより)。道明寺と道真公の深い結びつきを今に伝えるお話しです。
また、道明寺糒の和紙の表面には、「ほしいひ」という文字が書かれています。この文字は、豊臣秀吉が書いたものだということです。古代につくり始められてから現在までに、道明寺糒はさまざまな人々の目にふれ、注目されてきたことが分かります。
このような中で、道明寺糒が世界的に注目を集める大きな出来事がありました。明治時代、日本も参加したパリ万博に出品され、高い評価を得たのです。今年は大阪・関西万博が開催される年にあたっています。この機会に、道明寺の歴史の一つとして、次回はパリ万博と道明寺糒の出品を振り返りたいと思います。
(文化財保護課 新開 義夫)

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