市北部、樫田地区の田能から中畑へ向かう途中、中畑口バス停の手前に小さな石の道標が二つ並んでいます。
ひとつは上部が三角形の板碑(いたび)型で、「三十三所穴太寺九十町」「宝徳三」と刻まれています(写真左)。宝徳3(1451)年は室町時代にあたり、市内の道標に記された最古のものです。もうひとつには「右あなう」「左妙見」「文化九申」「羽州秋田郡」と刻まれています(写真右)。江戸時代後半の文化9(1812)年、この地で亡くなった東北地方の秋田からの巡礼者の供養を兼ねた道標です。
「穴太寺」「あなう」と記された穴太寺(あなおじ)は亀岡市にある西国三十三所霊場の21番札所で、20番札所の善峯寺(京都市)とを結ぶ道が樫田を経由していました。「妙見」とは能勢妙見山のことで、ちょうどこの地が、東は善峯寺、北は穴太寺、西は能勢の妙見山という著名な霊場の結節点に位置していたことを示しています。
樫田は現在では高槻と亀岡の往来の際の通過点ですが、電車やバスのない時代に霊場の間を徒歩で進む巡礼者にとっては、山越えしても樫田を経由して移動する方が近道だったのでしょう。
道端の小さな道標ではありますが、市内最古の紀年銘や東北秋田からの旅人がいたことも併せて、樫田の地が周辺の霊場を結ぶ交差点であったことをよく示していると言えるでしょう。
(埋蔵文化財調査センター)
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