文字サイズ
自治体の皆さまへ

【たかつき歴史アラカルト106】芥川城に滞在した信濃国守護・小笠原氏

45/51

大阪府高槻市

市内北部・三好山の芥川城を居城とした戦国武将・三好長慶の元にはさまざまな人が訪れました。その中に信濃国(長野県)の守護を務めた小笠原長時がいました。
長時は甲斐国(山梨県)の武田信玄に敗れて信濃国を追われ、天文19(1550)年に長慶を頼り芥川城に身を寄せました。三好氏の本家が小笠原氏とされたことから長慶は長時を厚遇したようです。
原の本山寺には永禄4(1561)年に長時と子の貞慶(貞虎)が出した古文書が残されています。長時は、信濃への帰国が叶うよう、本山寺に祈とうを依頼しています。
一方、貞慶は「下国する(他国へ赴く)ので、思いどおりにいくように」と、祈とうを依頼しました。「下国」とは何を指すのでしょうか。
同じ頃、室町幕府将軍・足利義輝が越後国(新潟県)の上杉謙信へ長時の帰国を助けるよう命じる手紙を出しています。このことから、貞慶は将軍の手紙を携えて謙信の元へ「下国」したと考えられます。将軍の命を受けた謙信は、同年の秋に出陣し、武田信玄の軍勢と刃を交えました。これが有名な川中島の戦い(第4次)です。この時も、長時の帰国は実現しませんでした。
永禄11(1568)年に織田信長が上洛し、三好氏が衰退すると、長時は越後国や会津国(福島県)に移ります。しかし、家臣に殺害され、帰国の願いは絶たれました。
一方、貞慶は信長上洛後、京都に滞在し、のちに徳川家康の元で府中(長野県松本市)を奪還。小笠原家の再興を果たしました。
(しろあと歴史館)

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU