芥川城は摂津峡を見下ろす三好山に築かれた戦国時代の山城です。天文22(1553)年からは三好長慶が城主となり、畿内を支配しました。永禄3(1560)年、長慶は飯盛城(四條畷市・大東市)へ移り、嫡男である三好義興(よしおき)が芥川城主となりました。
義興は天文11(1542)年生まれで、母は丹波国の守護代であった波多野氏の一族と推測されています。長慶には他に子がいる様子がなく、義興は長慶唯一の子であったとみられます。幼名は孫次郎。永禄2(1559)年に将軍足利義輝から「義」の一字を与えられて義長と名乗り、その後、義興に改めました。
芥川城主となり、三好家の家督を継いだ義興は、長慶に代わって畿内を支配するようになりました。ところが、永禄6(1563)年6月、義興は病に倒れます。一旦は回復したものの、まもなく重篤な状態になったようです。義興の治療には当代最高の名医である半井驢庵(なからいろあん)・曲直瀬道三(まなせどうさん)があたり、京都の寺社では病気平癒の祈祷(きとう)が行われました。また、正親町(おおぎまち)天皇により平癒を願う神楽が催されました。
しかし、治療や祈祷の甲斐なく、義興は永禄6(1563)年8月25日に芥川城において亡くなりました。享年22歳。父・長慶に先立つ早過ぎる死でした。なお、義興は家臣の松永久秀によって毒殺されたという説がありますが、後世に創作された話であり、事実ではありません。霊松寺(天神町)境内には、自然の石を使って作られた義興の墓があります。
(しろあと歴史館)
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