高槻で米作りが始まった2,500年前の弥生時代、安満遺跡の人々は水はけのよい緩斜面に、地形に沿って小さく区画した田んぼを開き、アワやキビなどの雑穀も併せて栽培していました。檜尾川が作りだした扇状地は、初期農耕に最適な地形だったので水田が広がっていきました。
米作りが始まっておよそ1,000年後の奈良時代、起伏のある土地をならして、水路やあぜを直線的に付け替える大規模な土木工事が行われ、田んぼの景観が大きく変わりました。田んぼを東西・南北の方位に沿って碁盤の目状に区画する「条里地割」の施行です。市内の平野部の遺跡を発掘すると、条里地割の方向に沿った直線的な水路やあぜ、人や牛馬の足跡、くわやすきで耕した痕跡が見つかります。さらには、条里地割以前の地形に沿ったあぜや水路、井堰(いぜき)が見つかることもあります。田んぼの発掘調査から、耕作技術の変遷や耕地の拡大過程を知ることができるのです。
市内の平野部を中心に現在も条里地割がよく残っています。これは、土地の境界や水路、道路の位置が条里地割を踏襲したためです。皆さんが見ている道路の形状や街の風景には、その土地が歩んできた歴史が刻まれていますが、そのルーツに古代の国土計画が色濃く反映されているのです。
(今城塚古代歴史館)
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