■関西将棋会館が高槻へ移転する橋渡し。
-長く棋士として活躍し、令和4年に引退。現在は高槻市文化スポーツ振興事業団理事長を務めていらっしゃいますが、いつ就任されたのでしょうか?
▽「平成30年です。最初はそんな大役が務まるのか不安はありましたけど、将棋も文化ですし、やってみようと思ってお受けいたしました」
-今高槻は将棋のまちとして盛り上がっています。それも含めて文化活動の状況はいかがですか?
▽「令和5年にできた[高槻城公園芸術文化劇場南館]は、一番大きい1,500人規模のトリシマホールのほか、2つのホールと中小のスタジオが10室あり、開館以降、さまざまな方にご利用いただいています。特に、トリシマホールについては、出演してくださった演奏家の方に、木の壁が生み出す音響がやわらかく響きがいいと好評をいただいていますので、これからもどんどん魅力ある催しをやっていきたいですね」
-そして昨年末には、ついに[関西将棋会館]が高槻にやってきました。高槻在住の棋士として、理事長として、桐山さんが市と日本将棋連盟との橋渡しをされたと聞いています。移転の話はいつぐらいから動きがあったのでしょうか。
▽「最初に市長からお話をいただいたのは、理事長に就任してすぐの頃。将棋連盟は前の大阪市・福島区にあった会館が老朽化してきて、ゆくゆくは、建て替えも考えなくてはいけなかったので、高槻への移転の話はタイミングがすごく良かったんですよ。建て替えるとしても大阪市内だと思ってましたから、この話を初めて聞いた時はびっくりしました。でもよくよく考えたら、大阪からも東京からも、来るのに交通の便がいい。東京からは京都で1回乗り換えるだけでいいので、特に便利なんですよ。私自身、高槻に住んでそのことを実感していましたから、当時の将棋連盟会長に、ちょっと検討してもらえませんかということをお話ししました。東京の棋士も、やはり便利になるということもありすごく好意的で、話が進んでいきましたね」
-そしていよいよ令和6年12月3日に高槻で[関西将棋会館]がオープンします。この時のお気持ちは?
▽「11月の開館記念式典でテープカットをさせていただきましたが、非常に光栄に感じました。新会館には、最新のシステムや設備が備わっています。私が棋士になった時の会館は、大阪市・阿倍野区にあった古い普通の日本家屋だったので、その時のことを思うと、夢のようですよ(笑)」
■棋士になるチャンスをくれた二人の師匠。
-約60年前から棋士として活躍されていて、令和4年に引退するまでは最年長棋士だったわけですが、棋士になったのはどのようなきっかけだったのでしょうか。
▽「小さかったので記憶はおぼろげなんですが、3歳の頃には祖父の手ほどきで将棋を指していたみたいです。近所で縁台将棋を大人がやっているのを見に行ったら、『僕、ちょっとやるか?』と言われて混ぜてもらったりしてたんですよ。まったくプロになるという気持ちはなかったんですけど、小学校3年生の時に、升田幸三先生という棋士との出会いがあり、プロの世界に入るようになりました」
-実力制第四代名人の!そんな棋士の目に適うなんて、その頃からやっぱりすごかったんですね。どのように出会われたのですか?
▽「生まれ育った奈良県吉野郡下市町の隣町が升田先生の奥様の故郷でして、避暑でご夫婦で近所の旅館に来られた時に、私を先生に紹介して下さった方がいて、一局指させていただきました。そうしたら、両親にプロになる気があるのなら、内弟子にしても良いというお話があったそうです」
-まだ小さいのにすごいですね。それで師匠が暮らす東京へ単身で行かれたわけですね?
▽「はい、一人で先生のお宅でお世話になりました。学校に行きながら養成機関に通ったり、町の道場へ行ったりしてました。将棋を指すのはすごく楽しいんですけど、学校で向こうの言葉になじめずにホームシックになって。将棋は勝負の世界ですから、意気地がないと破門になってしまいました」
-それで故郷の下市町に帰ったわけですね。
▽「それが、直接帰るのは恥ずかしいので、大阪に母親の妹夫婦が住んでいて、そこでお世話になって。大阪に将棋クラブがあったのでそこに1年間通いました。一生懸命将棋を指していた私を見て、父がなんとかしてやりたいと思ったんでしょうね。増田敏二先生を紹介してもらい、『そういうことなら弟子として取ってあげる』ということで再び首がつながったんです」
・タイトル戦などの中継をパソコンで見ることも。「現役の時よりも楽しんで見てます」
・「桐山清澄九段の懸賞次の一手」は、日本将棋連盟から出題。
・将棋界には竜王や名人など8つのタイトルがあり、桐山さんは棋王と棋聖を獲得。
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