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いにしえの風 斑鳩文化財センターだより

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奈良県斑鳩町

■「聖徳太子の生涯と事績」
来年は、聖徳太子が生まれてから1450年の節目の年にあたります。このことから、今回は聖徳太子の生涯や事績を紹介します。
▽聖徳太子生誕1450年
奈良時代に成立した『日本書紀』によると、聖徳太子は敏達(びだつ)天皇二(573)年に、用明(ようめい)天皇と穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのひめみこ)との間に生まれたとされます。
「聖徳太子」という名前は亡くなった後につけられたもので、生前は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」などと呼ばれていました。名前の由来については、馬小屋の前で生まれたことに由来しているとする説が有力ですが、飛鳥の橘寺付近にかつて「厩戸」の地名があったことから、地名による命名であるとする説もあります。
また、別名として、斑鳩に移り住む前に住んでいた宮の名前から「上宮王(じょうぐうおう)」とも呼ばれていました。

▽聖徳太子の事績
推古天皇九(601)年に聖徳太子は「斑鳩宮」の造営を始め、4年後の推古天皇十一(605)年に斑鳩へ移り住みました。斑鳩宮の他に、「岡本宮」や「飽波葦墻宮(あくなみあしがきのみや)」を造営したとされることから、一族を引き連れて移住したと考えられています。また、法隆寺の造営も同じ頃に行われたと考えられています。
太子が斑鳩の地を選んだ理由は、奈良盆地内を流れる河川の合流する場所に近く、大和川の水運を利用して朝鮮半島や隋(ずい)(中国)などの外国と往来ができること、陸路が東西に広がる交通の要衝であることなどの説があります。また、当時天皇の宮があった飛鳥へ太子が通うための道路である「筋違道(すじかいみち)(太子道)」もこの頃に整備されたと考えられています。
政治面では、世襲(せしゅう)でなく能力により広く人材を登用する制度として「冠位十二階」を定めたり、人としての心構えを示した「憲法十七条」を制定したり、大陸の先進文化を取り入れるために「遣隋使(けんずいし)」を隋に派遣するなど、天皇を中心とした国づくりの基礎を築きました。

▽現在も親しまれる聖徳太子
太子は、推古天皇三十(622)年に49歳で亡くなり、「磯長墓(しながぼ)」(大阪府太子町)に葬られたとされます。
太子が亡くなった後は、一度に10人の話を聞き分けた逸話(いつわ)が早くも『日本書紀』に見られるなど、没後間もない時期から伝説が生まれ、その後の太子信仰の興隆(こうりゅう)にもつながりました。また、我が国の紙幣の肖像として最も多く採用されたことなどから、日本史上最も有名な人物の一人として、現在も多くの人に親しまれています。

この節目の年を機に、聖徳太子についてあらためて知るきっかけになれれば幸いです。

問い合わせ:斑鳩文化財センター
【電話】0745-70-1200

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