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【特集】湊浜集団移転50周年 懐かしい時代 ~カメに酒を飲ませて帰した~(1)

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宮城県七ヶ浜町

昭和49年(1974年)に仙台港の建設に伴い、湊浜地区が現在の地に集団移転して今年で50周年を迎えました。10月6日の記念式典、熊野神社の鳥居の建て替えなどの記念事業に続き、現在は記念誌作りの真っ最中です。その記念誌の目玉企画の一つとして、6月28日に地区内の90歳以上の皆さん4名が地区避難所に集まり、移転前の懐かしい時代を振り返りました。
この日、集まったのは、生まれも育ちも湊浜の鈴木長吉(すずきちょうきち)さん、大町貞志(おおまちさだし)さん、星かね子さん、松ヶ浜から嫁いできた岸栁かず子さん。皆さんの子ども時代は今から約80年前です。もしかしたら他の地区の皆さんも同じような子ども時代を過ごされたのではないでしょうか。

◆昔は、ノバで泳いだ

《星》子どもの頃は、玉っこぶづ(ビー玉打ち)すたり、ぱったぶづ(めんこ打ち)すたり、男も女も一緒に遊んでたね。5、6人集まるとみんなで並んで、ばっこ飛び(馬っこ乗り)もした。

《岸栁》女の人はお手玉したり、ケンケンパーしたり、ゴム張って飛びっこしたり、よくやったさ。私は、高く飛ぼうとして地面に胸を打って気絶してしまった時があったの。家が近かったから誰かを迎えに行ったらしいけどね。

《鈴木》かくれんぼ、陣取りもした。年の順に位をつけて兵隊ごっこもした。

《大町》今は「おくりおくり」(稲に付く害虫を追い払う夏の行事)をしなくなったね。竹に団子をつけて砂浜に持っていって、丸く作った土手に竹を刺した。

《岸栁》「おくりおくり、おーくりよ」と言って虫を送った。

《鈴木》お正月過ぎには「ちゃせご」をして、家を回って餅をもらって歩いた。餅がいたましい(もったいない)時には、ふざけて大根に粉付けて渡したね。

《岸栁》「あきの方からちゃせごに来ました」と言って家を回った。

《鈴木》子どもの頃は、よく飛ヶ崎(松ヶ浜漁港飛ヶ崎トンネルがある岬)あたりで泳いだね。

《岸栁》私たちはかごの浜(現在の松ヶ浜漁港)で泳いだよ。

《星》板に乗って泳いだりもしたね。

《鈴木》かごの浜は波がないので泳いだっけねえ(甲斐がない)んだ。泳いだ時にワカメ採りなど、うんとすたおんな(たくさんした)。私が子どもの頃、男は何もはかないでノーパンで泳ぐのが当たり前だった。

《大町》昔、ノーパンのことを「ノバ」といった。もっこふんどしをはいていた人もいた。

《岸栁》女の人は赤い腰巻。もっこふんどしは兵隊さんがはいていた。

◆歩くのが当たり前の時代だった

《岸栁》昔の運動会は、今のようなTシャツがないから、メリヤスシャツ着て帯を結んで走ったの。走るときは裸足だった。

《鈴木》使い捨て足袋をはいて走った人もいたけれど、それは財閥( 金持ち) の家の人ばかりだ。バスもなく、歩くのが苦にもならなかった。

《岸栁》映画を見に塩釜まで歩くんだもの。歩くのが当たり前の時代だった。

《鈴木》遠山を通って、牛生を通って、貞山堀沿いに歩き、塩釜の入口に学生のボート置き場があって、そこを通ると間もなくだった。当時1時間はかかった。

《岸栁》あの頃、遠山は松林だったの。

《鈴木》家もぽつりぽつりしかないから、何かあって騒いでも誰にも聞こえなかった。

《星》遠山は怖いから、私は大代を通って貞山堀沿いを行った。花火大会の帰りに松島から歩いたこともあった。鈴木さんたちは蒲生(仙台市)まで歩いていたよね。

《大町》蒲生には通ったなぁ。仙台新港ができる前、蒲生まで松原と砂浜の海岸が続いていた。

《岸栁》松原を開墾して畑にしていたね。

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