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【特集】湊浜集団移転50周年 懐かしい時代 ~カメに酒を飲ませて帰した~(2)

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宮城県七ヶ浜町

◆マンボウ!みんなが、入れ物を持って集まった

《鈴木》春先からお正月近くまでは、でえごあみ(定置網)で漁をした。大きな船と小さい伝馬船で、船は焼玉エンジン、燃料は重油だった。毎朝、夜明けとともに港を出て、40、50分くらいかけて深沼沖(仙台市)あたりまで行った。
主にイワシで、他にサバ、マグロ、マンボウ、イシモチなどが取れた。
大漁の時は塩釜の市場に水揚げして、取れない時は船を陸にあげてもらった人々に分けた。

《星》大漁になると大漁旗を3枚揚げて帰ってきた。中漁の時は1枚。

《鈴木》あの頃は、漁港がないから砂浜に船をあげるのに、なげしという丸太を船の下に敷いて船を引っ張り上げた。丸太に魚の油のベトをつけると滑りがいいんだ。

《岸栁》私たちはそのなげしにつかまって泳いだの。

《鈴木》台風が来て次の日、漁に出られない時には貞山堀に船を持って行った。雨が降っても、しかけた網を見に海に出た。
大漁だったのに網が壊れて、魚が逃げてしまった時もあったなぁ。

《岸栁》マンボウが捕れたと聞くとみんなが浜に入れ物を持って、ぞくぞくと集まった。

《鈴木》解体してみんなで分けたり、勝手に割いて持っていく人もいた。

《岸栁》こんにゃくみたいな味だった。

《鈴木》酢の物や湯がいてサラダにして食べた。網の中にカメがいた時は、大漁になるようにとカメを浜まで連れてきて酒を飲ませて海に帰してやった。

《星》人が乗れるくらいの大きなカメもいた。

《大町》大きなカメは馬車に積んで松島の水族館に持って行ったもんだ。

◆貧乏だったけど、楽しみだったね

《岸栁》お正月といえばのり餅だね。学芸会や運動会の時ものり餅だった。雑煮に餅を入れて、軟らかくしてから取り出して納豆餅にして食べた。

《鈴木》ハゼの出汁がついてうまかったね。

《星》お薬師様の湧き水を汲んで沸かして飲んでいたこともあった。

《岸栁》薬水と言っていたね。

《鈴木》秋には竿に鳥餅を付けて、ひわっこ(ヒワ)捕りもした。季節にやってくる鳥で、飼ってさえずりを楽しんだんだ。竹を小刀で削り、鳥かごを2日くらいかけて夢中で作ったもんだ。

《岸栁》鉛筆を削るためにみんなが小刀を持っていたよ。また、秋には松原に行って松の葉のこぼれさらいもしたね。かまどの火付けにするためにみんなで集めて丸めて、半端なものはくじ引きして配ったりした。キノコも採れた。

《星》浜ではツブやハマグリを採った。

《鈴木》ハマグリを採って青年団の活動費にした時もあった。浜から上がってきたときの味噌おにぎりの味は格別だったね。

《岸栁》きな粉おにぎりもあった。

《鈴木》あの頃は人の家の柿やイ貧乏だったけど、楽しみだったねチジクが実るのを待ちかねていたね。怒られたけどさ。イチジクはうまかったなぁ。佃煮にするとまたうまいんだ。
海が荒れた時は、貞山堀でスズメケンコ(ムラサキ貝、シュウリ貝)も採った。ザグザク採れた。

《岸栁》味噌づくりもした。機械がなかったから臼でつぶして味噌玉にして、塩とこうじを樽に入れて寝かせるんだった。醤油も作った。
青年団が借りてきてテントを張って映画を見た時もあった。ちゃんと弁士もいた。子どもはペロンコ(無料)だった。

《星》今年で70回目となった子どもの日の運動会は、私の母が始めたのがきっかけと聞いたことがあったの。せっかく子どもの日があるのに何もしないのはかわいそうだと、婦人会の人たちと一緒に子どもたちにせんべいをあげたのが始まりだそう。

《鈴木》演芸会も盆踊りも昔からあったけど、あの頃、演芸会でのマドロス(船乗り)は大人気だったね。女の人もマドロスをやった。あまりの人気に他の地区からもずいぶん見に来たね。とにかく貧乏で育っているからそういうのが楽しみだったね。

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