【スポーツセミナー2024】
主催:
・七ヶ浜町スポーツ協会
・七ヶ浜町スポーツ少年団本部
・七ヶ浜町スポーツ少年団 指導者協議会
協力:
・NPO 法人アクアゆめクラブ
■花渕の海を見て頑張ろうと思ったんです
12月7日に中央公民館で七ヶ浜町出身の元プロ野球選手、大越基さんを迎え、「野球から学んだ人生」と題したスポーツセミナーが開催されました。
大越さんは、東日本大震災直後も福岡からトラックいっぱいの支援物資を届けてくださるなど、七ヶ浜との絆は今もなお強く結ばれています。プロ野球選手と先生を経験した大越さんが語る七ヶ浜への思い、子どもたちへの思いがぎゅっと詰まった珠玉のひと時でもありました。
【大越 基さん】
1971年 七ヶ浜町生まれ。亦楽小2年時に野球を始める。その後、父の転勤により青森県に引っ越す
1987年 仙台育英学園高等学校に入学
1989年 全国高校野球選手権大会において、初戦から決勝まで一人で投げ抜き準優勝に輝いた
1993年 ドラフト1位でダイエー(現福岡ソフトバンクホークス)に投手で入団。11 年間の現役生活では投手としてプロ入りしながら、俊足·強肩を生かすための外野手へと転向するなど、幅広くプレーした
2003年 現役引退後は教員免許を取得し、高校野球の指導者としても活躍
2007年 山口県早(はやとも)高等学校の教員として着任
2009年 同校野球部の監督に就任
2012年 同校を初の選抜大会出場に導くなど、2024年7月までの15年間、指揮を執った。来季からは、現福岡ソフトバンクホークスの4軍監督として、若手の育成にあたる
◇今は両親に対して感謝の気持ちでいっぱいです。
[阿部]まず初めに、基という名前のいわれについて教えてください。
※七ヶ浜町スポーツ協会会長の阿部真也さん
[大越]両親からは、基本、基礎をしっかりした人に育ってほしいからと聞いたのですが、名付け親の祖父に聞いたら、河北新報社の人に基という偉い人がいたからという理由だったので、すごいショックでした。
でも、今は基という名前が大好きです。私は、高校の先生を18年間していましたが、いつもテストの時に、気持ちを込めて名前を書いてくださいと話します。
せっかく、もらった名前なのに殴り書きしたり、漢字があるのにひらがなで書いたりする人がいますが、自分の名前を大切にすることが、名前をつけてくれた人に対しての恩返しや感謝の気持ちにつながっていくと思います。
[阿部] 野球をするきっかけは何だったんですか。
[大越]私が子どもの頃は、ゲームなどの遊び道具がない時代でした。でも、兄が野球をしていたので、家にはグローブとボールはたくさんあったんです。幼稚園(和光幼稚園)に入る前は、遊び相手が少ないから一人で壁にボールをぶつけて遊んでいました。それが野球を始めたきっかけです。
親に強制的にやらされたという感覚はなかったですね。ただし、野球チームに入るときに、学校の成績が下がったら野球をやめるという大越家のルールがありました。テストで80点、90点以上取らないと大好きな野球をやめさせられると思い、必死になって勉強しました。当時は、大人らしい交換条件でしたが、今は両親に対して感謝の気持ちでいっぱいです。
[阿部]なるほどね。そういうやり方もあったんですね。ここに来ているお母さん方は今のような話を聞きたかったんですよね。
◇七ヶ浜に育てられたという思いがものすごく強いです。
[大越]児童会長をしていた亦楽小6年生の時に、1学期で八戸市の小学校に転校することになり、全校児童の前で号泣しながらあいさつをしたことを覚えています。
私が八戸に転校して気づいたことは、人口30万人の八戸市の小学生より七ヶ浜の小学生の方が、はるかに身体能力が高かったことです。
七ヶ浜の小学校はマラソン大会や縄跳び大会など、運動が盛んでした。八戸の小学校で、私は何をやっても1位でしたので、私のことをスーパースターが転校してきたと言われました。七ヶ浜にいた時、全国大会に出場した七ヶ浜中野球部の試合をテレビで見ました。私が5年生の時には七ヶ浜スネークスが全国少年野球大会に出場するなど、このようなことが当時の七ヶ浜では当たり前のことだったんです。
まわりのレベルが低いと、その低いところに自分を合わせてしまったりするけれど、私はとにかく負けず嫌いで、レベルが高い七ヶ浜の中で、運動も勉強もトップにいたいと思い、自分のレベルを上げようと努力しました。それが八戸での1位につながったのだと思います。 私は今53歳ですが、七ヶ浜に育てられたという思いがものすごく強いです。七ヶ浜でいろいろな人たちと接し、もまれていなければ、おそらくプロ野球選手にもなれなかったんじゃないかなと思います。
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