■連載149 文字が語る古代多賀城 -その3 多賀城廃寺の名前-
多賀城廃寺は、多賀城政庁の南東約600メートルの位置にあり、多賀城政庁とほぼ同じ8世紀前半に建てられた多賀城付属寺院です。塔と本尊をまつる金堂(こんどう)が向き合って東西に並び、講堂、鐘楼(しょうろう)、経楼(きょうろう)、僧房(そうぼう)なども備え、東北地方では早い段階に整備された本格的な寺院でした。名前が伝わっていないため「多賀城廃寺」と呼ばれており、昭和36年に始まった発掘調査でも、名称の特定に至る資料は見つかりませんでした。
この寺院の名称を考える上で重要な資料が発見されたのは、昭和57年度の山王遺跡東町浦地区の発掘現場でした。この場所は、多賀城の南面に広がるまち並みのメインストリートである東西大路の一部にあたる場所で、まち並みの西はずれでもあります。この調査区からは、万灯会(まんどうえ)という仏教行事に使った灯明皿(とうみょうざら)を含む土器が多数出土し、その中の一つに「観音寺」と墨で書かれた土器(墨書土器(ぼくしょどき))が確認されました。
この発見により、多賀城廃寺の本来の名前が「観音寺」である可能性が高まりました。根拠としては、万灯会がまち並みの境界で行われた仏教行事であることから、それを主宰する寺院は多賀城の付属寺院である多賀城廃寺が妥当と考えられること、伽藍(がらん)配置が大宰府の観世音寺と共通することが挙げられます。
長年謎であった多賀城廃寺の名称に「観音寺」という一つの有力な説を提示した土器は、「観音寺」銘墨書土器として平成17年11月1日に市指定文化財に登録されました。この発見は、長い時を越えて現代の私たちに情報を伝える出土文字資料の重要性を示した事例となりました。
*10月号から12月号の歴史の風は、埋蔵文化財調査センターで開催中の企画展「文字が語る古代多賀城」に関連した内容をお伝えします。
*令和6年に多賀城が創建1300年を迎えるにあたり、多賀城の歴史に触れるきっかけとなるように、令和6年1月号から新コーナー「ゼロから分かる多賀城の歴史」を連載します。連載は令和7年1月号までの予定です。新コーナー連載中、「歴史の風」は休載します。
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