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歴史の風

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宮城県多賀城市

■連載142 多賀城外郭(がいかく)の門
多賀城には、主に丘陵部は築地塀(ついじべい)、低湿地部は材木塀(ざいもくべい)で作られた外郭施設がありました。不整な四角形に政庁と役所群のある丘陵を取り囲んでおり、その範囲は南辺約870メートル、東辺約1050メートル、北辺約780メートル、西辺約660メートルにおよび、総延長3キロ以上と非常に広大です。特に築地塀は、南門付近では約5メートルもの高さと考えられ、近くから出土した土器に書かれた文字から、「大垣(おおがき)」と呼ばれていたと考えられています。
現在復元中の南門は、外郭南辺に建てられた、政庁へとまっすぐ通じる多賀城の正門でした。飛鳥時代から現存する木造建物である法隆寺中門や、平安時代に作成された絵巻物『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』に描かれた平安宮朱雀門などさまざまな資料を参考に、発掘調査成果を踏まえた多くの時代考証を重ねて復元された二重門(一階部分にも屋根を持つ二階建ての門)は、多賀城の正面玄関にふさわしい荘厳な佇まいを見せています。
そのほか外郭には、南門以外にも東辺・西辺に門があったことが分かっています。東門は、外郭東辺北寄りに建てられた門です。780(宝亀11)年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)による焼き討ちからの復旧以降には、門の位置は外郭が約40メートル内側に曲がり、東門も内側に建て替えられました。
西門は、外郭西辺南寄りに建てられた門です。焼き討ちからの復旧の時期には、東門と同様に、門の位置は外郭が約35メートル内側に曲がり、西門も内側に建て替えられました。また、近年の発掘調査成果により、西辺には外郭北西隅付近にも西北門が開いていたことが分かりました。
これらの門は、主に八脚門(はっきゃくもん)(門を支える柱の前後に4本ずつ8本の控え柱を配置した門)という格式の高いつくりでした。また、東門と西門は、城内の連絡のために、東西に横断する道路でつながっていたと考えられています。
多賀城外郭に建てられた門は、城外との出入口という実用性に加え、多賀城の威容を誇る役割も兼ね備えた、重要な役割がありました。

問合せ:埋蔵文化財調査センター
【電話】368-0134

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