(232) 中世大崎古文書(ちゅうせいおおさきこもんじょ)
築館地区宮野には、鎌倉時代の末から南北朝時代の動乱期にかけての4つの文書が残されています。1つは、建武(けんむ)4年(1337年)8月2日の日付がある紺紙に金泥で書かれた寄進状で、従三位中納言朝臣(じゅさんみちゅうなごんあそん)が、霊験あらたかな場とされる宮野八幡宮に「天下泰平」のため、神鏡一面を奉納したというものです。
他の3つは、南北朝時代の文書であり、宮野家の家系図や天正(てんしょう)18年(1590年)正月5日に宮野豊後守(みやのぶんごのかみ)が家伝の重器(具足(ぐそく)、大刀(たち)、綸旨(りんじ)、経文(きょうもん)、古鏡(こきょう)など)を筋目として及川重昌(おいかわしげまさ)へ譲ったという譲渡状、天正18年(1590年)7月14日に大崎義隆(おおさきよしたか)が宮野豊後守へ宛てた書状です。大崎氏は足利一門奥州管領(おうしゅうかんれい)であり、斯波(しば)氏ゆかりの氏族ですが、関東北部大崎庄から宮城県に移り、志田、遠田、加美、玉造、栗原の五郡を拠点とした有力武士で、大崎義隆はその最後の領主です。この頃の栗原は、大崎氏と関東御家人の葛西(かさい)氏がせめぎ合い、両勢力の衝突する地でした。宮野豊後守平政弘の署名による元亀(げんき)元年(1570年)正月10日の宮野家の系図は、宮野氏が葛西一族であるとしていますが、永正(えいしょう)元年(1504年)に大崎氏のために上洛し、足利将軍に謁見(えっけん)したことが記録されており、大崎氏配下として行動していた事が分かります。
これらの史料は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、戦乱の続く栗原の様子を今に伝えています。
種別:市指定有形文化財
指定日:昭和39年8月24日
所在地:個人蔵
問合せ:教育部文化財保護課
【電話】42-3515
<この記事についてアンケートにご協力ください。>