(222) 細倉當百(ほそくらとうひゃく)
藩政時代末期、細倉鉱山には、鉱山内で鋳造し、使用された独自の貨幣がありました。鉛を使い、表面に細倉當百と鋳出されたこの貨幣は、角の丸い正方形で、中央に同じく正方形の孔が開いています。大きさは一辺約60ミリメートル、孔の大きさは一辺約10ミリメートル、重さは175グラムほどと非常に大型のものです。裏面には「秀」の文字があり、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が用いた花押を模したものといわれています。
昭和39年に出版された「細倉鉱山史」によると、細倉鉱山は、銀山として天正年間(1573~1592年)から稼業しており、延宝3年(1675年)の記録では、少ないながらも鉛を産出しているとあります。元禄(1688~1704年)、文化・文政(1804~1830年)の繁栄と天保(1830~1844年)以降の衰退を経て、安政(1854~1860年)の頃に回復期を迎えたとされており、細倉當百が作られたのは、細倉鉱山が活気を取り戻し、鉛の増産に務めた文久(1861~1864年)の頃にあたります。
職人の給与や日用品の売買に使用された細倉當百は、鉱山内に限って通用するものとされていましたが、栗原だけではなく、岩手県の磐井(いわい)地方にも残っており、その分布範囲の広さには、当時の細倉鉱山の影響力の大きさが表れています。
現代では貨幣の愛好家に収集され、複製品の販売や地域の銘菓のモチーフとして取り上げられるなど、鉱山の繁栄の歴史を伝える存在として、人々に親しまれています。
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