【事故当事者に実状・実話を聴く】
◆「かもしれない運転」の大切さ
佐藤伸作さん(仮名・町内在住)
ある休日、その日は小雨が降っていました。用事があり外出していた私は、自宅に傘を忘れていることに気付きました。次の予定まで時間に余裕があったため、傘を取りに一度自宅に帰ることに。頻繁に通る道路に入り、いつもどおり運転していました。
そして信号機のない交差点に進入。次の瞬間、左側の道路から侵入してきた車と衝突したのです。あまりにも一瞬の出来事だったので、事故の瞬間「ドン!」と大きな音が聞こえたこと以外は、何が起きたのか覚えていません。
慌てて車から降り相手の車に近寄ると、相手は軽傷を負っているようでしたが、死亡事故につながるようなものではなかったため、胸をなで下ろしました。少しでも衝突した位置がずれていたら…。同乗者がいたら…。ブレーキを踏むタイミングが少しでも遅かったら、もっと重大な事故になっていたかもしれません。今でも、あの時家族が同乗していなくて本当に良かった、相手に大きなけがが無くて本当に良かったと、強く感じています。この事故の後、それまで以上に交通ルールや道路の状況に注意を払って走行するようになりました。今回の事故は車両相互の事故でしたが、事故後は以前よりも「人がいるかもしれない」と思って運転するようになりました。また、どうしても事故現場の交差点を通る機会があるのですが、特に速度を落として慎重に通行しています。
交通事故の当事者になり、基本的なことですが「かもしれない運転」を心掛けることが大切だと痛感しました。自分が安全運転をしているつもりでも、事故を起こしてしまうこともあります。そのことを、身をもって学びました。
◆運転する責任の重大さ
石川美郷さん(仮名・町内在住)
10年以上も前のことです。仕事を終えて車で帰宅していた時、毎日のように通る交差点に差し掛かりました。その時、突如左側の道路から、猛スピードで軽自動車が飛び出してきたのです。避ける間もなく衝突し、私は道路脇の田んぼに車ごと突っ込んでしまいました。
気が付いたら救急車の中におり、病院に搬送。事故翌日には退院しましたが、一カ月ほど首にコルセットを巻いて生活しました。今でも首が痛むので、整骨院に通っています。相手の車の同乗者は高齢だったこともあり、しばらく入院生活が続いたと聞いています。幸い、死亡事故にはなりませんでしたが、突っ込んだ先が田んぼではなく、コンクリートの壁などだったら…。もう少しで命が危険にさらされていたかもしれません。
私は、普段どおり時速40キロ程度で走行していましたが、相手は、一時停止すべき交差点で停止せず交差点に進入してしまったということでした。警察の人は私に「このような交差点では、自転車と同じくらいの速度で走行しなければいけないのです」と言いました。制限速度が時速50キロの道路を時速40キロ程度で走行していましたが、それでも不十分だったようです。
この体験で、私は車を運転することは同乗者やほかの車に乗っている人に対しても責任を持つことなのだと強く実感しました。知り合いを乗せる機会がありますが、“もしも”の事を考えると、運転する責任をより一層強く感じます。
同乗者がいる時はもちろん、普段の運転から、それまで以上に慎重に運転するようになりました。今後も、事故なく安全に過ごしていきたいと思います。
【自分の、誰かの安心・安全のために】
◆無意識の「自信」が危険のサイン
▽『過ちは、易き所になりて、必ず仕る事に候』
「失敗は必ず簡単なところになってからする」のは、「簡単だから失敗する」のではなく、「簡単だから大丈夫」との考えに原因があります。
事故は、交差点などでの少しの脇見で起こり得ること。公道だけでなくスーパーの駐車場などでも発生していること。ルールを守っているつもりでも、安全確認や徐行などを怠れば発生する可能性があること。このことから、車が私たちの生活に必要なものであるからこそ、常に私たちの日常に潜んでいるということが分かりました。事故の危険性はそのような「そんなこと、分かっているよ」と言いそうになるような「簡単」の意識にあるのです。
車の運転は、常に危険が伴うものです。自分の運転で誰かを傷つけてしまうことも、その逆もあり得ます。事故の当事者にならないように、まずは私たち自身の心の中に「無意識の自信」がないかを問い、誰もが安心して生活するために、私たち自身の運転を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
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