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(歴史探訪)飫肥藩の儒学者 安井滄州(そうしゅう)・息軒親子の延岡紀行

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宮崎県日向市

文化15年(1818年)4月11日から18日にかけ、飫肥藩の儒学者の安井滄州・息軒親子が延岡へ旅し、「卯の花」という紀行文を残しています。
滄州は江戸時代中・後期の儒学者で飫肥藩に仕えました。清武に開かれた郷校明教堂では学長兼教授を務め、天保元年(1830年)に飫肥に藩校振徳堂が設立されると総裁兼教授となり教育に務めました。
息子の息軒も明教堂や振徳堂のほか、江戸の私塾「三計塾」、そして幕府の最高教育機関「昌平坂学問所」で教鞭をとった人物です。
延岡への旅ではその往復で本市域を通過し、美々津、金ヶ浜、財光寺、細島、日知屋、富高新町を巡っています。
往路では、前日から一緒になった重兵衛と美々津で別れの酒を交わし、金ヶ浜では茶店で休息をとりながら北上しています。
細島では伊東祐邑(すけむら)の供養碑を訪れています。祐邑は文明18年(1486年)に伊東家の家督争いの中で前当主の弟に暗殺された人物です。供養碑に祐邑の戒名「天叟幸公」が刻まれていることを確認しますが、長い年月が経て弔いに来る人もいないのだろうと悲しさを感じたと記し、「尊しと御墓を守る新樹哉」の歌を残しています。
この後二人は、観音寺、妙国寺を巡り日知屋城跡を目指します。農夫に場所を聞いたところ、一つの山を指差されます。そこは廃城から200年以上が経過し、すっかり樹木に覆われた日知屋城跡でした。これを見た滄州は古城を見れば樹木ばかりであると歌っています。
さらに二人は本善寺、富高新町、財光寺を経て延岡に向かうことになります。

問い合わせ:教育総務課文化財係
【電話】66・1036

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