■北郷資忠(ほんごうすけただ)と薩摩迫館跡(さつまざこやかたあと)
島津本家4代忠宗の6男である北郷資忠は、観応(かんのう)2(1351)年の観応の擾乱(じょうらん)で、足利尊氏方として活躍しました。その功績が認められ、資忠は翌文和(ぶんな)元(1352)年に尊氏から北郷(ほんごう)(現在の市北西部)の地300町を賜り、島津から「北郷」に改名したといわれています。この北郷家が、のちの「都城島津家」で、同年12月、資忠は薩摩迫(山田町古江)に入り、館を築いたと伝えられています。薩摩迫館跡は、霧島山地南東の麓から延びるシラス台地の河岸段丘(かがんだんきゅう)上に位置していて、江戸時代の古絵図(こえず)と平成22年の縄張り調査や確認調査の結果を照合すると、大手口(館正面の入り口)から上の館跡中核部分の範囲は、東西方向に約170m、南北方向に約130mと推定されます。また平成5年の発掘調査では、中世の溝状遺構(みぞじょういこう)や掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)の柱穴(ちゅうけつ)などの遺構、中国・明朝期の青磁(せいじ)や15世紀中頃の備前焼の擂鉢(すりばち)が出土しています。
都城島津家の誕生地と伝わる薩摩迫館跡。南北朝時代に活躍した北郷資忠の生涯の足跡をたどる上で重要な遺跡です。
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