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富山県の生みの親 米澤紋三郎氏を知る(町合併70周年のことし、富山県は置県140年)

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富山県入善町

≪町合併70周年のことし、富山県は置県140年≫

現在の入善町は、70年前の昭和28年10月1日、旧入善町と、上原村・青木村・飯野村・小摺戸村・新屋村・椚山村・横山村の大合併で誕生しました。
そのさらに70年前の明治16年、入善出身の政治家「米澤紋三郎(もんざぶろう)」氏の尽力で、石川県から分県し、今の富山県が誕生。その6年後、明治22年に最初の入善町も誕生しました。
ここでは、「分県の父」米澤氏の功績を振り返ります。

◆入善に生まれた米澤氏 洪水から人々を守りたい
米澤紋三郎氏は、安政4年(1857年)、新川郡入膳村の大地主、「東米澤家」の次男として誕生。幼名を随作(ずいさく)といい、14歳のとき、富山藩主に学問を教えた岡田呉陽の塾に入門、17歳で塾頭(先生の代理)を務めるほど優秀でした。
明治8年(1875年)、米澤氏が18歳のとき、黒部川の洪水で堤防が決壊し、多くの水田や人々が犠牲に。紋三郎氏は、こうした悲劇を防ぐ治水工事を進めるため、政治家を志しました。

◆若くして石川県議に 分県を目指すまで
明治14年(1881年)、兄の急死で、養子に出ていた「西米澤家」から元の家に戻り、九代目紋三郎として家を継いだ米澤氏。同年、24歳の若さで石川県議会議員になりました。
当時、現在の富山県は越中と呼ばれ、加賀・能登とともに石川県の一部でした。議会では、越中の議員は洪水を防ぐ河川改修を叫ぶ一方、数に勝る加賀・能登の議員らの道路改修を望む声に押され、意見を通せずにいました。
利害が異なる地方が一つになって政治を行うことの難しさを感じた米澤氏は、越中は石川県から独立すべきだとの決心を固めました。

◆仲間たちと立ち上がり独立を実現、「分県の父」に
明治15年(1882年)、米澤氏は同じ考えをもつ人々と「越中改進党」を組織。当時25歳の米澤氏が、政府に分県を求める陳情をする代表者の一人に選ばれ、越中独立を求める意見書「越中分県の建白書」を作成しました。同年9月、東京に赴き、政府要人に約3週間にわたり粘り強く陳情し、建白書を提出しました。
その翌年、石川県からの分県が叶い、今の富山県が誕生。分県直後、紋三郎氏は、富山県議会議員となり、議長を2回務めました。その後衆議院議員にも当選し、黒部川を含む県内主要河川の治水工事や入善銀行の創設など、さまざまな活動を通して、郷土の発展に尽力されました。

●富山県ができるまで

◆この町を築き上げてきた先人たちへの感謝を胸に―
黒部川の豊富な水と、その流れが作り上げた黒部川扇状地とともにある入善町は、水と緑の恵みにあふれています。先人たちは知恵と努力でそれらを活かし、今の町を築き上げてきました。
この町に生まれ育ったことを誇りに思い、この町を築いてきた先人たちへの感謝を胸に、未来に向かって羽ばたく人々が、これからの入善町を創っていきます。

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