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故 西田 東作氏に名誉市民の称号を贈呈

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富山県小矢部市

10月3日、故西田東作氏に小矢部市名誉市民の称号を贈呈しました。贈呈式は市役所で行われ、ご遺族の西田明男氏が出席されました。
西田東作氏は、戦後間もない昭和25年に、株式会社ゴールドウインの前身である津澤メリヤス製造所を創業して以来、社業の発展に努め、昭和39年開催の第18回東京オリンピックにおいて日本代表の競技ユニフォームを手掛けるなど、国内有数のスポーツウエアメーカーにまで発展させました。創業の地である本市を広く知らしめるとともに、本市産業の振興と雇用の拡大、市民所得の向上など、公共の福祉の増進に貢献されました。
その功績をたたえ、故大谷米太郎氏、故大谷竹次郎氏、故大谷勇氏に次ぐ、小矢部市では4人目となる名誉市民の称号が贈られました。

■西田東作氏の主な略歴
大正14年 津沢町(現小矢部市)に生まれる
昭和25年 津沢町にてメリヤス業を創業
昭和26年 「株式会社津澤メリヤス製造所」として法人化
昭和36年 株式会社津澤メリヤス製造所 代表取締役社長に就任
昭和38年 社名を「株式会社ゴールドウイン」に改める
平成12年 株式会社ゴールドウイン 代表取締役会長に就任
平成23年 株式会社ゴールドウイン 相談役に就任
平成24年 逝去

■西田東作氏の経歴など
西田東作氏は、大正14年11月27日、富山県津沢町(現小矢部市)の農家に男4人女4人の8人兄弟の末っ子に生まれる。
高等小学校を終え、石川県西金沢の紡績工場で働きながら仕事後に技能者養成所へ通う。金沢の私立尾山中学校卒業後、東京中野の陸軍憲兵学校に入学。終戦後、両親と女兄弟、子どもばかりが残る津沢町に戻るも、昭和23年、父が72歳で他界。
家族を食べさせるため、紡績工場勤務の経験と義兄がメリヤスの編物職人だったことから昭和25年、津沢町でメリヤス業を創業、翌年法人化し、社名を「株式会社津澤メリヤス製造所」とする。家族や親類が力を合わせて働くことができるという理由もあり、約40坪の工場で義兄を工場長に親類、メリヤス職人、近所の女性を集め、メリヤスの靴下や腹巻、セーターやベストなどを作りはじめる。自ら商品を抱え、富山や高岡、金沢の小売店を売り歩き、残業や徹夜をして働く社員に母が夜食をふるまうなど、家庭的な温かさを感じられる、“社員が財産”というゴールドウインの原点となる。
創業の前年、水泳の全米選手権1500mで古橋廣之進氏が世界新記録で優勝し、日本に明るい話題をもたらした。平和が続くこれからの日本にはスポーツの時代が必ず来ると直感し、昭和27年、創業3年目にしてスポーツウエア専業メーカーへ転身を図る。大学を主体とした学生スポーツが盛んだった当時、野球用のストッキング、水着などの競技ウエアを作りはじめる。

昭和33年、「より多くの選手にゴールドウイナーになってほしい」という願いを込め、自社ブランドであるゴールドウイン製品の生産を開始する。

昭和38年、社名を現在の「株式会社ゴールドウイン」に改める。

昭和39年、東京オリンピックが開催され、日本から女子バレーボール、体操、ウエイトリフティングの選手らが表彰台に上がり、日本人の金メダリストの8割がゴールドウイン製のユニフォームを着用していた。現在では当然となっているスポーツウエアメーカーが選手から直接意見を聞き、一緒になって商品開発を進めるなど、そのシステムにおいても時代を拓いていく。

ヨーロッパ視察でフランスのフザルプ社のスキーウエアのフォルムに大きな衝撃を受け、世界と日本の技術の差を実感する。そのノウハウを得るため、フザルプ社に提携を申し込み、昭和45年、ついに単独技術提携の契約に漕ぎつける。昭和50年、アメリカ最大のアスレチックウエアメーカーだったチャンピオンプロダクツとライセンス契約を結ぶ。昭和51年には、イタリアのエレッセのスキーウエアを導入する。相継ぐ世界の一流ブランドの導入は、ナンバーワンに憧れるユーザーのニーズを的確に捉えていた。その後、昭和53年にザ・ノース・フェイスの販売を開始。昭和58年にはノルウェーのマリンウエアブランド、ヘリーハンセンとライセンス契約を結ぶ。さまざまなブランドとの提携にはいつも世界への想いがあった。

常に目標を掲げて社員たちを引っ張り続けていく推進力を持っていた西田氏は、全体の売り上げが3億円ほどの時にすでに100億円の会社にすることに言及していた。東京に本社を進出させることも、東証一部に上場させることも、すべてにおいて早くから高い目標を設定し、挑戦し、そのひとつひとつを確実に実現させていった。「世界を制覇する」という言葉も、社名をゴールドウインに変更する以前から社員たちに語り続けていた。
会社経営のポイントとして、会社づくりは人づくりであり、それこそが経営者にとって最も大切な仕事であると考えていた。社員たちに対して一旦信頼して仕事を任せると、細かいことや目先の結果を責めることはなかった。また、部下を褒めるタイミングも絶妙で、きちんと相手を見て褒め、叱り、社員をやる気にさせられる人間だった。だからこそ社員たちを、この人のために働こう、この人についていこうという気持ちにさせることができた。そこには、経営者としての能力だけでなく、みんなを強く惹きつける人間としての魅力があった。
また、ゴールドウインの社長としてだけではなく、スポーツ業界並びに地元である富山で多くの公職を務める。それは心から愛してやまないスポーツ業界と自分を育ててくれた富山に対して、そして会社をここまで大きくしてくれた世の中に対する恩返しの気持ちからだった。世界で、東京で、富山で。メーカーが主体となって日本のスポーツレジャー産業界を活性化し、さらに拡大し、国民生活のゆとりと豊かさの実現に寄与すること。多くの人々の健康で楽しい暮らしのために力になりたいという願いは、会社という枠を越えていた。

昭和41年と昭和56年に紺綬褒章を受章。昭和63年韓国ソウルオリンピック功労賞を受賞。平成元年藍綬褒章を受章。平成6年オーストリア共和国有功大栄誉賞銀賞を受賞。そして平成12年には勲四等旭日小綬章を受章する。その度にそれまでお世話になった方々と自分を生んで育ててくれた両親への感謝を忘れなかった。事あるごとにスポーツを愛する気持ちと、そして常に自分を支えてくれた人々と両親への心からの感謝の想いを表していた。

参考文献:『「俺がやらねば誰がやる」西田東作、ゴールドウインの精神』2012年
発行者…西田明男
発行元…株式会社ゴールドウイン

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