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【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

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富山県高岡市

■近代高岡文芸の盟主/筏井竹(いかだいたけ)の門(かど(もん))(1871~1925)

筏井竹の門は、郷土の文芸発展に貢献した俳人・俳画家で歌人です。本名は向田虎次郎(むくたとらじろう)といい、金沢で旧藩士の末子として誕生しました。号は竹の門のほか、四石(しせき)、松杉窟(しょうさんくつ)などがあります。1892年高岡へ移住。写生による現実密着型の革新俳句(日本派)を提唱した正岡子規に共鳴し、子規が選者(せんじゃ)の新聞や雑誌に投句します。1897年高岡を訪れた子規の高弟(こうてい)・河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)に触発され、和田の寺野守水老(しゅすいろう)、同竹湍(ちくたん)、山口花笠(かりゅう(かりつ))らと日本派俳句会「越友会(えつゆうかい)」を結成します。以降、高岡の俳壇をけん引しました。
竹の門は同年、綿糸業の北一(きたいち)に入社し、筏井太物(ふともの)商店の長女と結婚し筏井姓となりました。1902年頃にできた地方紙「高岡新報」へ投句して常連となり、1908年頃から選者になりました。温厚な竹の門の元には派閥に関わらず全国から俳人や画家などが集い、多くの後進を育てました。
1911年日本画家・冨田渓仙(とみたけいせん)の高岡訪問を機に、竹の門は俳画(俳句と絵が一体となったもの)に熱中し、独自の境地を切り拓きました。
古城公園内には竹の門を偲ぶ人によって句碑「宴(うたげ)つづく思(おも)ひの朝寝(あさね)さへづれり」が建立されています。(仁ヶ竹主幹)

問合先:博物館
【電話】20-1572

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