文字サイズ
自治体の皆さまへ

【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

6/38

富山県高岡市

■高岡古城公園創設者/服部嘉十郎(はっとりかじゅうろう)(1845〜80)
嘉十郎は高岡を代表する町人、天野屋の13代目で、幼い頃より学問・文芸に秀で、温厚な人柄でした。
服部家(天野屋)初代は前田利家の越前府中(えちぜんふちゅう)(福井県越前市)時代に召し抱えられます。利長に従って、守山城を経て富山城に移り、その際に町人となって天野屋と名乗ります。2代目は、1609年の高岡開町の際に御馬出町に109m四方の宅地を拝領。翌年、町役人中最高位の町宿老(まちしゅくろう)となります。1711年、家は藩主の御宿(おやど)(御本陣(ごほんじん))に指定されました。
嘉十郎は1868年家督を相続して町役人に加わり、貧民救済や地租改正に奔走しました。また、同年高岡初の公立学校・高岡学館の役員となり、1876年には当時北陸随一と称された高岡育英小学校を創設するなど教育にも尽力しました。
最大の功績は、1875年の高岡古城公園の創設です。1870年、金沢藩は「古御城(ふるおしろ)」(高岡城跡)の払い下げ開墾を命じ、2年後七尾県が入札を行いました。このとき26歳という若さで大区長(現在の市長に相当)を務めていた嘉十郎は、「公園」にすべく有志と落札者を説得して回り、翌年請願書を提出。1875年7月4日に正式に公園に指定されました。
高岡の人々のため、町役員として活躍した嘉十郎でしたが、その裏で父の介護を11年間務め、その間依願退職と復職を繰り返します。自身も31歳頃より結核となり、父の死後2ヶ月後に34歳で亡くなりました。(仁ヶ竹主幹)

問合先:博物館
【電話】20-1572

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU