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【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

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富山県高岡市

■守山城主/神保氏張(じんぼうじはる)(1528~92)
神保氏張は戦国時代の武将です。通称は宗五郎(そうごろう)、清十郎(せいじゅうろう)。安芸守(あきのかみ)と称しました。出身は諸説あり、能登・越中守護の畠山氏の猶子(ゆうし)とも、また越中守護代神保氏の庶流(しょりゅう)で守山城主となる神保氏重(うじしげ)の子とも、氏純(うじずみ)の養子ともいわれます。
二上山に築かれた守山城は氷見・射水だけでなく、砺波・新川平野の一部までも見渡せる重要拠点でした。戦国時代末期、氏張は能登畠山氏の意向を受けて守山城に入ります。その後、越後の上杉謙信などから攻撃を受けるも一向宗と協力し城を維持しました。
越中で織田上杉の争いが激しくなると、氏張は信長の妹を妻とするなど織田方となり、佐々成政(さっさなりまさ)の腹心として活躍します。高岡にとって有名な事績は、秀吉と対立した成政が一向宗を味方に引き入れるため、天正12年(1584)、伏木に勝興寺を招いたことです。伏木における勝興寺の歴史は氏張によって始まりました。
成政が肥後(熊本県)へ転封となると、氏張もこれに従います。成政が切腹となると浪人になりますが、のち、徳川家康に召し出され、下総香取郡(しもうさかとりぐん)(千葉県北東部)で2千石を与えられ、子孫は旗本として続きました。成田市にある氏張の墓には「越中守山之城主」の文字が刻まれています。
(仁ヶ竹主幹)

問合先:博物館
【電話】20-1572

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