■戦国末に活躍した木舟城主/石黒成綱(なりつな/しげつな)(?~1581)
戦国末期の武将・石黒成綱は福岡町木舟にあった木舟城の城主です。通称は左近(さこん)(左近蔵人(くろうど/くらんど))。成綱は福光石黒氏の傍流木舟石黒氏です。石黒氏は砺波郡内の石黒荘(現南砺市福光)を支配した土豪(どごう)で、源平合戦では石黒光弘が木曽義仲に味方し、活躍しました。木舟城は光弘(もしくはその後裔(こうえい))が1184(寿永3)年に築城したとされる平城(ひらじろ)で、木舟石黒氏は水陸交通の要ようしょう衝である木舟城を拠点に力を増し、小土豪から「国人(こくじん)領主」に成長します。1481(文明13)年の「田屋川原(たやがわら)の合戦」で福光石黒氏が井波瑞泉寺・土山御坊(どやまごぼう)(後の勝興寺)ら一向一揆勢に敗れて衰退すると木舟石黒氏が石黒氏の主流となりました。
成綱は1566(永禄9)年、鷹栖館(たかのすやかた)(現砺波市)や勝満寺(現小矢部市)を攻めるなど、一向一揆方と争いながら支配領域を拡げ、1574(天正2)年7月、越中を制圧した越後の上杉謙信に臣従しました(1577年の謙信家臣名簿「上杉家中名字尽(かちゅうみょうじづくし)」にその名があります)。1578年に謙信が没すると、再び一向一揆方と争い織田信長に従います。しかし、1581(天正9)年、重要拠点からの国人排除を企図する信長から近江(おうみ)(滋賀県)の安土城(あづちじょう)へ呼び出されます。成綱は気配を察して長浜に留まりますが7月6日、信長家臣・丹羽長秀(にわながひで)に包囲され、一族数十人と共に殺されてしまいました。(仁ヶ竹主幹)
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